度重なる災害にみまわれた輪島、つくり手の現場から

「もう疲れた」。
9月21日、22日の豪雨の後、連絡をとった輪島の知人からの言葉だ。

輪島の市民の海水浴場、光浦(ひかりうら)海岸。震災で隆起して景色が一変したという。

その3週間前の8月末。輪島に行っていた。ボランティアの訓練も受けていない人間が、乗り込んでも何の役も立たず足手まといにしかならないだろう、と気持ちが落ち着かないまま、1月1日の震災以降9ヶ月あまり過ぎての能登行きだった。

駆け足で8人の輪島塗に関連するつくり手に会ったが、「やっと日常が戻りつつある。だが元に戻るのは年単位だろう」と、皆、冷静に語っていた。ひとりは仮設住宅に入っていたが、「ショッピングモールに近いから、買い物も楽」と言っていた。

木地師 寒長 茂さんの工房。幸い被害に遭わずに済んだ。「木地がなければ漆は塗れない」と、正月2日から仕事を続けている。写真は8月末のもの。

2007年の震災で“倒壊の恐れあり”の認定を受け、建て直したもうひとりの家は、傾いて2階は使えない状態だが、激甚災害の補償の対象にはならず、仕方なく1階の台所で仕事をしている、と諦めの表情を見せていた。

またある人は「2007年に続き、またも皆さんに助けられ、申し訳ない」と言う。震災は誰にでも起こりうることだから謝る必要はないのに、人に頭を下げなければならないこの状況に「災害の理不尽」を感じたが、少しずつ日常が戻り、皆、つくる意欲に燃えていた。

8月に訪ねたときの「輪島キリモト」の工房。この後浸水の被害にあい、1カ月経ってもまだ片付けは終わっていない。

輪島キリモトの倉庫は、元旦の震災ののちに建てられた、坂 茂さんが設計した紙管の仮設建築。水害の被害は受けたがみんなで掃除をした、と聞いている。

輪島キリモトの山道四方皿。お皿としても重宝する。ピッタリとスタッキングできて収納にも便利。

そこに来てこの豪雨。地震ももちろん怖い。だが、そこに追い打ちをかけた浸水。「仮設住宅が浸水」とニュースになっていた場所は、まさに訪ねたひとりが入っていた仮設住宅だった。直近で、そこに行っていたから立地は分かる。どんな大雨でも浸水するような所ではなかった。普段だったら浸水など無縁の場所の何箇所もに、濁流が流れる映像をニュースで確認し、言葉を失った。

濁流が押し寄せたキリモトの工房外観。内部は床上浸水している。(輪島キリモト提供)

SNSには何日経っても、片付けを続けなければならない状況への悲痛な叫びが発信されている。水に一度濡れればダメになるものは多い。その上、今回は泥水だ。拭いても拭いても砂が浮き上がってくる。渇ききらない湿気で、後から不具合が見つかることは想像に難くない。不毛な片付けが延々と続き、捨てるかどうかの判断は人を疲れさせ、大切なものを捨てざるを得ない状況も人を消耗させる。

あまりの被害に、彼らに声もかけられずにいた。中途半端な励ましなど、何の役にも立たない。せめてもと、この夏に地震のためのチャリティバザーを開いた友人に連絡をして、またバザーを計画しないか相談したところ「まず今はタオルや雨靴、掃除道具でしょう」という返事に、ハッとした。災害では時事刻々必要なものが変わっていくことに気づかされた。

8月末の高田晴之さんの工房。9月の大雨で一時孤立し、断水が続くなか、10日後には仕事を再開したという。

水害から数週間経ち、彼らの日常の動きが垣間見られるようになると、遠方の人間はほっとし、勝手に「良かった」と思ってしまう。だが、そんなわけはない。あれだけの被害が2度だ。

8月に能登を訪ねたとき、道のひび割れも倒壊した家も手付かずの状況だった。外向きには元気な姿を見せても、まだ残る地震と水害の爪痕は心を蝕む。普通の日常生活を送っている人間が、何を言っても絵空事でしか無いことがもどかしい。

8月末の輪島朝市通り。

2度の災害は、人としての尊厳まで踏みにじったに違いない。復興には数年単位の時間が当然かかるだろうが、他の地域では話題に上ることも減ってきてしまった。

8月に訪ねたひとりの木地師、高田晴之さんが言っていた言葉を思い出した。「毎月、(地震が起こった)1日に能登のことを思い出してくれるだけで、我々は救われます」。

能登との距離感も人それぞれだが、誰もができる「思うこと」は続けていきたい。End