ここ10年程、生活道具の見本市出展ブースが随分こなれて、おしゃれになっている。一昔前は、既存の什器で済ませる会社が多かったが、昨今は、それぞれのブランドのイメージを感じられるようデザイナーを頼むところも多い。
2000年代は、地場産業でホームページを持っている会社など、ほとんどなかった。それが、今、「ブランディング」こそ工場成功の原点、と皆思っている。会社のブランド名、ロゴ、その土地や歴史を感じさせる古い工場と熟練の職人の働く姿、ライフスタイル雑誌にそのまま載せられそうなイメージ写真。これらが揃えば人目を引く。「なんとなく売れそう」なイメージが巷に溢れていて、なんとなくは売れる。しかし本当に人に求められている商品がどうかは、売れ続けるかどうかだ。
と、のっけから辛口なことを書いたが、今日はこの時流に反した動きをする、かっこいい工場の話をしたい。
昨年創業100周年を迎えた東京の硝子工場松徳硝子株式会社。「うすはり」で知られる硝子工場だ。薄いガラスを総称して「うすはり」ということが多いが、実は「うすはり」は松徳硝子の登録商標だ。
筆者が独立するとき、木村硝子店の木村武史社長に大いにお世話になった。「一人問屋」という個人との取引を許してくれたことはもちろん、アルバイトをさせてもらったり、取引先を紹介してもらったり、今でも足を向けて眠れない。
独立して数年経った02年ぐらいだっただろうか。ある日、木村硝子店を訪ねたところ、木村社長から「うちのグラスを売らなくてもいいから、松徳の硝子を売って」と頼まれて、一体何が起こったかと驚いた。その当時の松徳硝子は売上の多くを、ある観光施設からの注文に頼っていたが、突然、注文を切られてしまい、途方に暮れた当時の村松社長は工場を閉めると言い出した。
つくるグラスごとに工場を変えている「工場を持たないガラスメーカー」の木村硝子店にとって、松徳という工場は替えの効かないものだった。廃業されては、木村のラインナップに大いに差し障りが出る。少しでも売り上げが欲しい、ということだった。筆者程度が動いたからといって、たかが知れているが、とにかくこのことがきっかけで松徳硝子との付き合いが始まった。
さて、19年(令和元年)のこと。松徳硝子から社長交代の連絡が届いた。3代目までは創業の村松家が社長を務めていたが、専務だった齊藤能史氏が引き継ぐという。続いてコロナ禍の20年(令和元年)、長く愛されていた錦糸町の工場を南千住に移したという挨拶状が届いた。
齊藤さんは別のメーカーでブランディングなどを担当していた。しかし職人の仕事も学びたいと松徳硝子の工場見学をして以来同社に惚れ込み、ボランティアでブランディングを手伝っていた。数年後、しっかり仕事に取り組んでほしい、と専務の席を用意された。その当時勤めていた会社の給料は、村松社長より高かった。だが、収益を上げれば給料は上がるはず、と熱い気持ちで減給をものともせず入社を決意した。
専務就任後に、松徳のロゴを新たにつくり、どんな会社であるか、ホームページに当時としてはまだ珍しい動画を載せた。そして、観光施設で販売していた色や切り子の入ったグラスは今後売れなくなると判断し、オリジナル品の品数を減らすという英断をした。10年代に一気に増えてきたライフスタイルショップ向きではないラインナップを早めに停止したのは正しい判断だったろう。だが、かつては地場産業だった東京のガラス工場が一軒、また一軒と減っていく。
「ガラスは儲からない」という、経営者の思い込みと諦めも要因だったかもしれない。ガラスは素材の溶解に13時間ほど要するため、作業時間に制限がある。溶ける状態も日々変化し不確定要素が多く、確実な収益を得ることは難しい。マシンメイドや海外生産にシェアを奪われ、勢いを失うガラス業界を見て跡継ぎとなる長男も退職してしまい、村松社長は再び廃業を考える。村松社長にとっては家業だが、この工場がなくなる損害の大きさを明確に理解していたのは、外から来た齊藤さんだった。
「変なスイッチが入ってしまって」と、本人は言うが、齊藤さんは厳しい経営状態を理解しながら、社長と会社を受け持つ決断をした。一度消えてしまった灯を再度灯すことはたやすいことではないからどうにかしたい一心で決断したことだが、それを維持・継続させることの困難は予想以上だった。
近年、利便性の向上から、地価の上がっている錦糸町駅界隈。旧社屋はその錦糸町駅から徒歩7分程度に位置していたが、取引銀行が探しに探し、適当な工場移転用地を提案してくれた。条件は良かったが、大きな設備が必要な硝子工場の移転は、並々ならぬことだった。だが、齊藤さんはこれを大きなバネにしようとする。
そもそも、齊藤さんが工場の社長を引き受けたのは、社員に対する敬意の表れでもあった。「ウチでしか働けないような不器用な人間も多いけど、めちゃくちゃ、自分達の仕事にプライドを持っている」という職人たち。ガラス工場の職人というと、ガラスを吹いている人だけのことを考えてしまうが、松徳硝子には、ガラスを吹くプロの他に、ガラスを溶解する原料のプロ、吹いたものを次の工程に運ぶプロ、徐冷という工程のプロ、口を切り仕上げるプロ、洗浄のプロ、検品・梱包・出荷のプロがいた。
「わかっているのは現場だから」と、すべての工程の担当者に、新しい工場をどのようなレイアウトにするかを委ねた。「面白いもので、作業の時に目立たなかった人間が、妙に仕切りが上手いことがわかったりしました」と、そのときの様子を楽しそうに思い返すが、齊藤さんは常に“どうしたら、それぞれの人間が、最高の仕事を成し遂げられるか”を考えている。
実は苦い経験もある。頼りにしていた吹き職人が二人辞めた。体を壊して辞める決断をした二人の後悔を無駄にしてはいけないと齊藤さんは大きな決断をする。それは“営業時間の1時間短縮”だ。8時から17時という雇用契約は変わらないが、仕事は8時から10時、小休憩後の12時まで。午後は13時から15時までで小休憩後は内々に16時まで、とした。夏の硝子工場は暑すぎて、効率が上がらないので、真夏に行っているタイムスケジュールを年間のものとしてみた。
だが驚くべきことに、作業時間は1時間減ったにも関わらず、生産量が変わらなかった。硝子工場の生産量は、単に吹く個数ではなく、検品して出荷できる個数で決まる。最後の休憩の後「あと、1時間」という気持ちが、それぞれの作業の効率をぎゅっと上げているようだ。
つねづね、齊藤さんは「クオリティを上げたい」と口に出す。松徳硝子の透明なガラスは完璧に感じるが、「現状に誰も満足していない」という。実際、工場を見せてもらうと、それぞれの部門の人間が、きちんと仕事を全うし、いいものをつくり上げようという気概が感じられる。
ガラスは甘くはない。日々の気候や溶融炉の状態で、「必ず」はない。だから、生産量の7割を占める自社製品に関しては、注文先に納期を伝えていない。すべて出来次第の納品となる。だが、木村硝子店からの注文は別だ。かつての廃業危機を救った木村硝子店からの注文はOEMの8割を占める。
松徳硝子はここ数年、新作をつくっていないが、木村硝子店からは新しいかたちの提案が定期的にくる。自社のオリジナル品をつくらずとも、木村硝子店に納めるものを仕上げることは、工場の技術向上にも役立っている。業界でも一目置かれる木村硝子店からの注文に対しては月間に納める数を決め、その内訳は先方に任せている。この決め事は絶対に守っている。
さまざまな改革ののち、22年はわずかだが、賞与も出せた。休みも増やせた。だが、現状に満足していない。新しいものも、新しい取引先もいらない。今を支えてくれている取引先に少しでもクオリティの良いものを、早く納品する。現状をスキルアップする。それが松徳硝子、社員全員の目標だ。
齊藤さんはもともと広告に携わり、ブランディングのことは嫌というほど解っている。だが、今はブランディングなどという目先の見え方にとらわれず、腕で勝負、自分達の能力を高めることを目標にしている。「つくること」に集中できるのは、既に松徳を信頼してくれる取引先が十分にあるからできることだ。
「めちゃくちゃ、かっこいい職人集団」と自慢する社長のもとで、今日も、日本の財産とも言うべきガラスが生まれている。ブランディングでカッコよく見せるより、本当にいいものをつくることに誇りを持つことこそ、ものづくりの本質だ、と思うのだ。
《おまけ》
2022年夏に熊本を訪ねたことが縁で第41回 くらしの工芸展2023の審査員をつとめさせていただくことになりました。クラフト界のレジェンド、竹作家の宮崎珠太郎さん、デザイナーの荻野克彦さんとご一緒することは、光栄でもあり、恐ろしくもあります。
展覧会は10月31日ー11月5日です。