菅澤光政は、日本屈指の木工家具メーカー、天童木工に1963年から2005年まで在籍し、開発部部長として建築家やデザイナーの仕事を技術面から支えてきた。家具の開発をはじめ、自身でも「ヘロンシリーズ」などの家具を40種類以上もデザインしたほか、商品カタログの製作、新素材の開拓、海外デザイナーとの交渉など、多方面に尽力した。同社の歴史に名が刻まれる重要な人物のひとりである。天童木工の加藤直樹と本橋直子に取材協力をいただき、今年83歳を迎える菅澤に当時の貴重な話を伺った。
ものづくりに対する興味から天童木工へ
菅澤光政は、1940年に東京・葛飾区の畳屋の二男として生まれた。子どもの頃からものをつくることが好きで、雑誌で見て興味を抱いた千葉大学工業短期大学部(現・千葉大学)に1960年入学。同大学の前身は、豊口克平や剣持勇、渡辺力らを輩出した東京高等工芸学校である。3年制で印刷、写真、工業意匠、木材工芸の4つの学科があり、菅澤は意匠よりも、ものづくりをしたいと思い、木材工芸科を選んだ。
菅澤は当時を振り返ってこう語る。「大学には木工機材がひと通り揃っていて、機械や刃物を専門に教える先生や、かんなで髭を剃るすごい先生もいました。そこでかんながけをはじめ、一から木工について学び、(課外授業で)浜松のヤマハや木工機械の工場見学にも行きました」。卒業後は大手家具メーカーで働きたいと思い、先生に相談したところ、若い会社で面白そうだと薦められたのが天童木工(1940年設立、菅澤と同年生まれ)だった。
菅澤は1963年に天童木工に入社。山形県天童市の本社工場勤務となり、技術部部長の乾(いぬい)三郎の下についた。乾は、もともと宮城県仙台市の工芸指導所東北支所で剣持勇の助手として試作を担当していた人物で、天童木工に入社後は成形合板の多方向プレス機やマイクロウェーブ加熱成形装置などを独自に開発。それらを用いて新しい工法の家具を生み出すなど、技術に対する探究心には人一倍貪欲だったという。
菅澤の入社当時は、翌年開催の東京オリンピックを前に競技施設やホテルが建設ラッシュで、建物一棟分の家具を製作する案件が複数同時進行していた。「注文を受けてすぐに設計して、待ったなしでものをつくって納めなければいけない、その繰り返しでした」と、菅澤は当時の多忙ぶりを語る。
新しい素材を用いて、新しい家具を生み出す
「とにかく人手が足りなかった」というなかで、菅澤は家具の開発以外にも仕事をかけもちした。ひとつは、商品カタログの製作である。天童木工では、物件ごとに特注家具を製作してきたが、それらを自社のオリジナル商品としてカタログにまとめることになり、その編集作業を菅澤が担った。1961年からスタートした「天童木工家具デザインコンクール」の事務局も担当した。審査委員長に剣持勇、審査員を丹下健三や豊口克平らが務め、多彩なデザイナーが応募し、千葉大学の先輩、垂水健三による「座イス」などの受賞作品が製品化された。
また、同社では毎月、アメリカ、ドイツ、フランス、デンマークなどの家具の雑誌を購入していたが、最初に工場長の加藤徳吉が見て興味を持ったものに次々に丸をつけていき、その記事の翻訳を菅澤が任された。その印が付けられた雑誌が今も同社に残っているそうだ。高度経済成長のただ中にあった当時、いち早く新しい素材を探し出し、それを使って新しい家具をつくろうという気運が会社全体に満ちていたという。
新素材の開拓に、菅澤は率先して取り組んだ。ちょうどその頃、デンマークのSASロイヤルホテルのために世界で初めて硬質発泡ウレタンを用いてつくられた「エッグチェア」や「スワンチェア」が日本にも入ってきた。発泡ウレタンや発泡スチロールについて勉強したいと菅澤は思い、化学メーカーに行って原料を分けてもらい、試作して研究を重ねた。「新素材の誕生に伴って、新しいデザインが生まれる、そういう時代の流れでしたね」と菅澤は言う。
1966年には、デンマーク国立技術研究所へ半年間ほど研修に行った。実はJETROによる産業意匠研究員としてデンマーク王立芸術アカデミーに留学した(1958〜1960年)島崎信に、天童木工の大山不二太郎社長が話を聞いて興味を持ち、菅澤に白羽の矢が立ったという。その研究所は電気、機械、家具などの研究のほか、北欧家具の品質管理の基準を決定する機関でもあり、そこで得た学びを自社に持ち帰った。
国内外の建築家やデザイナーとの共創
デザイナーとの共創について、菅澤はこう話す。「剣持勇さんの原寸図はとても綺麗で、その通りつくればいいという正確なものでした。長大作さんの原寸図も綺麗で、試作を1回、2回つくるだけでだいたい決まる、早かったですね」。また、「507(現・S-0507)」の椅子は、水之江忠臣が何度も修正を加えたエピソードが知られているが、菅澤によると背もたれの角を丸くしたり、後ろ脚の前面にある峰を数センチ上や下にずらしてみたりと、細かな調整をしながら水之江は造形美を追求したという。海外デザイナーでは、ブルーノ・マットソンと開発した家具がロングライフ商品になっている。日本での試作チェックはもちろん、当時はメールなどなかったため、スウェーデンに試作や図面を郵送して調整を図った。
70年代以降、菅澤はパリ、ケルン、ミラノ、シカゴなどの家具見本市に単身で視察し、海外デザイナーのスカウトにもあたった。
菅澤が考えるデザイン
菅澤自身も、在職中に40種類以上の椅子をデザインした。1965年に最初に手がけた「OM5036」「OM5037」「OM5043」は、ホテルのロビーなどに置く家具として考えた。当時流行っていたセクショナルチェアと呼ばれる、横に複数並べるとベンチのように使用できる椅子で、のちにハイバックチェアやロッキングチェアへと展開し、「ヘロンシリーズ」として現在まで製造を続けている。1997年に展開された介護福祉施設向けの家具「KFシリーズ」の中では、木製の車椅子「KF-5926」などもデザインした。
家具デザインの着想のもとは、自社で建築家やデザイナーが手がける家具はもとより、雑誌や展示会で見た家具や新素材に刺激を受けたり、商品カタログの中で手薄のカテゴリーに新しいアイテムを取り入れることを考えたりしたという。
天童木工は定年まで勤め、2005年に退社後、東北芸術工科大学デザイン工学部で5年ほど非常勤講師を務めた。テーマを与えて、木材を使って5分の1の家具の模型をつくるという課題を出したり、天童木工時代の話もしたという。自宅には簡単な木工機械を揃え、キッチンの棚や、調味料のボトルを収納できる食事を運ぶワゴンを自作したこともあるそうだ。
これまでを振り返って、菅澤にとってデザインとは何かと尋ねた。「誰かのために、人のために考えた道具をつくることだと思います。自分がデザインを考えるときには、それを使うことによって、その人の生活がより豊かになるとか、新しい生活スタイルには、どういうものが合うだろうかということが常に頭のなかにありました」。
菅澤のデザインした家具をはじめ、天童木工が建築家やデザイナーと共創してきた家具および新作は、東京と大阪のショールーム&ストア、山形の本社ショールーム&ストアで見ることができる。ぜひ実際に座って、同社の木工技術の素晴らしさを体感していただきたい。また、山形の工場では、乾の開発した多方向プレス機が現在も稼働し、名作を生み出し続けている。事前申込制で見学ができるので、特にデザインに携わる方、デザインの道を志す方にお勧めしたい。