北欧に根づくスタートアップエコシステム
「バーベキュー」から生まれる新興企業たち

スカイプやスポティファイなど、多くのITスタートアップを生み出してきた北欧。その勢いは今、さらに加速している。背景にあるのは、シリコンバレーなどとは異なる独自のスタートアップエコシステムのデザインだ。「バーベキュー」の名を冠したユニークなイベントをデンマークで取材した。

Photos by Maya Matsuura

スカンジナビア最大のテックイベント

「スタートアップエコシステム」は、企業や大学の研究機関、公的機関などがネットワークをつくり、スタートアップ企業を生み出しながら発展していくシステム全体を指す言葉。循環する自然の生態系になぞらえて、エコシステムと呼ばれる。

アメリカ・シリコンバレーを発祥とするこのシステムは世界各地に展開し、各国で広がりを見せてきた。なかでもデンマークで行われる「テックバーベキュー」は北欧最大級のテック系展示会で、北欧におけるスタートアップエコシステムを象徴するイベントとなっている。その規模は近年急速に拡大しており、10年目を迎えた今年は1,600社以上のスタートアップ企業、600以上の投資家や投資ファンドが参加。数千人規模の来場者が訪れる賑わいをみせる。

テックバーベキューのCEO、アブニット・シンは「シリコンバレーと比べれば、デンマークのエコシステムはひじょうに小さいものです。けれどもネットワークの質、コラボレーションの質の高さに私たちのアドバンテージがあると考えています。スタートアップ企業は出資も求めていますが、それだけがゴールではない。そこからスケールアップしていくためには、出資だけでは解決できない問題があるのです。テックバーベキューにはスタートアップだけではなく、スケールアップを目指す企業が多く参加していることも、そのことを示しています」と語る。

今年10回目を迎えた「テックバーベキュー」は、スカンジナビア最大のITスタートアップ展示会。行政サービスなどのデジタル化率で世界1位となるなど、あらゆる分野でDXが進むデンマークでは、ITスタートアップの数もひじょうに多い。

スタートアップから見た魅力

9月14、15の両日、コペンハーゲン市内の会場で行われたテックバーベキュー。一昨年は感染症拡大のためオンライン開催となったが、今年は昨年に続いてデンマーク国内だけでなく、スウェーデンやフィンランドに加えてドイツやオランダなど、ヨーロッパ各国からスタートアップのほか起業家や投資家が詰めかけた。参加はウクライナからも。また、各国大使館などの公的機関や政府系ファンドのほか、グーグルやマイクロソフトなどもブースを出展し、メタは最新のVRゴーグルの体験コーナーを設けた。

小さなバーベキューから始まったというテックバーベキューのアイデンティティは「ヒュッゲ」の考え方にある。デンマーク人にとって最も大切とも言えるこのフィロソフィが、テックバーベキューを世界有数のスタートアップエコシステムに成長させた。

スタートアップから見たテックバーベキューの魅力はどこにあるのだろうか。デンマーク発のSaaSスタートアップ、チュリス創業者で、小売業向けのECプラットフォームを販売するキャスパー・グルートは「デンマークで会社を立ち上げるのは、オンラインで5分で完了するほど簡単。しかし出資を受けた後、スケールアップしていくことはひじょうに難しい」と話す。

同社は2019年に創業し、政府系ファンドや著名な実業家などから計250万ユーロの出資を受けた。人口約580万人、GDPはスウェーデンの60%ほどと、市場規模に限りのあるデンマークでは、IT関連企業の多くがBtoBのサービスやプロダクトを提案し、同国からヨーロッパ全体へと展開することが多い。

グルートは「創業者ひとりで始めた会社が3年で数倍以上の規模になったはいいが、スケールアップの段階ではひとりでは解決できない問題が出てくる」と言葉を継ぐ。そのために、異なる視点やスキルセットを異業種からも学ぶ必要があり、ヨーロッパ全体で事業を進めていくためには、各国の公的機関とのネットワークやリーガルアドバイス、メンターの存在も必要となる。「テックバーベキューは、出資を得るチャンスと捉える経営者と同じくらい、スケールアップのためのネットワーク構築の機会と捉えている人が多いのではないか」。

テックバーベキューのDNA

テックバーベキューの特徴は、このイベントがもともと起業家らが集まって行った小さな「バーベキュー」から始まっていることだ。

CEOのシンは「10年前に行った起業家やIT技術者のための小さなバーベキューが、このイベントの原点です。当初はまだ混沌としていましたが、くつろいだ雰囲気のなかでネットワークを広げたり、刺激的なスピーカーの話を聞ける場として、少しずつ参加する人が増えていきました」と振り返る。そして、今では世界で最も「ヒュッゲ」なイベントだと胸を張る。

鉄道の機関庫をリノベーションした会場では、2日間の期間中、会場内外の大小さまざまなステージで140以上のパネルディスカッションや催しが開かれた。投資家から経営者、技術担当者、各国の公的機関の代表など、多彩なメンバーの多角的な話に多くの参加者が熱心に耳を傾けていた。

ヒュッゲとは、居心地の良い空間に満足感を感じることや、小さなことに幸せを感じることといった、デンマーク人の心の持ち方を指す言葉。同国の作家、マイク・ヴァイキングは2016年に世界的ベストセラーとなった著書のなかで、動詞でもあり形容詞でもあるこの言葉を「心の安らぎ」「不安がないこと」「心地良い一体感」「人との温かいつながりをつくる方法」などを挙げて説明している。

このヒュッゲが「テックバーベキューのDNA」だと、シンは語る。スタートアップエコシステムは、起業家と投資家だけで成り立つものではなく、資金投資やノウハウ面でサポートを行って事業拡大を促すアクセラレーターや、さらなるイノベーションを促すインキュベーターといった存在に大学や公的機関が携わり、相互に関わることでシステム全体の有機的な働きが可能になる。

気候変動への問題意識を促す氷のオブジェ。出展する企業には、持続可能性や多様性といった問題に真正面から取り組もうとするITスタートアップが目立つ。

シリコンバレーはもちろん、フィンランドのIT展示会「スラッシュ」など、ヨーロッパにも既存のスタートアップエコシステムはあるものの、単に投資家とスタートアップをつなげるだけではない「心地よさ」や「温かいつながり」が、テックバーベキューの存在感を高めている。そしてそうした関係性が、エコシステム全体に信頼や公平・公正さ、調和や感謝といった土壌を与え、数値や指標では測れない“豊かなコミュニティ”を形成している。これは起業家だけでなく投資家にとっても魅力的な環境に映るという。

「テックバーベキューのようなエコシステムはここにしかない」。スウェーデンのVC(ベンチャーキャピタル)、ウェルストリートのCEOで著名投資家のキャロライン・ファーバーガーはそう語る。リスクの高いプレシードステージ(創業準備中の段階)の事業にも積極的に投資している同社にとっては、それはリスクの高いことでもある。投資先企業についてさまざまな角度から分析しつつも、結局のところ信頼や公正さといった感覚を「共有できるかどうか」が重要だと話す。「ドアの向こう側でのやりとりではなく、互いにオープンになれる空気感がこのイベントにはある」。今回初めて参加し、投資先の候補となる企業を見つけたというファーバーガーは、このイベントをそう評価する。

夢想的な事業を現実にする土壌

鉄道の機関庫をリノベーションした会場の内外計7カ所に設けられたステージでは、2日間で140以上のパネルディスカッションや催しが開かれた。さまざまな立場のスピーカーが登壇し、最新のフィンテックやエドテックの技術について、あるいはスケールアップ時の財政的課題やリーダーシップ論、さらにはウクライナにおける経営の現状などについて多彩な議論が交わされていた。

会場では専用のアプリで業種やトピックを選び、関連する登壇者や出展者とチャットが可能。同じアプリから商談スペースを予約すれば、すぐに具体的な商談や相談が始められる。

2019年に小売業向けのECプラットフォーム「チュリス」をリリースしたキャスパー・グルート。「シリコンバレーの企業や海外のファンドに会社を買ってもらうことをゴールとする人もいるけれど、それでは国のためにならないと僕は思う。デンマークに拠点を置く意味はそこにある」。

コペンハーゲンで今年3月に起業したマリア・クレメンセンは、着なくなったワードローブ内の服をアップロードし、独自の仮想通貨と交換したうえで貸し借りできる「シェアドローブス」というアプリを提案していた。シェアリングエコノミーを仮想通貨で実現させる試みだ。「デンマークの市場は小さい。ここでテストしたうえで、より大きな市場で勝負したい。それは多くの起業家の考えと共通していると思う」。7月にローンチしたアプリは、すでに相当額の出資を得たという。

今年7月にアプリをリリースしたばかりのシェアドローブス。CEOのマリア・クレメンセン(右)は、同じく企業経営者の父親(左)など数人からすでに出資を受け、スケールアップを目指して出展した。起業から資金調達、スケールアップまで、多くの企業が日本と比べてひじょうに速いスピードで進めていく。

日本におけるスタートアップの調達額やVC投資のGDP比、ユニコーン企業数といった指標は、いずれも他の先進国と比べて「著しく低い水準」(経団連)にあるという。加えて、サスティナビリティや多様性の実現などをコアバリューに置く企業や経営者は、どこか青臭く見られがちだ。起業する人が少なく、成功するスタートアップが少ない。成功したとしても小さくまとまり、世界で大勝するスタートアップがない。その結果、大成功のロールモデルがなく起業する人が出てこないという負のスパイラルがあると分析する向きもある。

一方テックバーベキューでは、一見「夢想的」なテーマに真剣に取り組もうとするスタートアップが、ごく小さな段階から理想的な出資者を見つけ、経営者とネットワークをつくり、グローバルに事業を展開させる土壌がある。それを可能にしているのは、巨大な市場でもなく、投機的な環境でもない。「近所のバーベキューに参加したような感覚」と、その感覚をもとにデザインされたスタートアップエコシステムなのだ。

ITの分野でシリコンバレーは世界の中心と言えるが、シリコンバレーになりたいわけではないとシンは語る。「シリコンバレーにできなくて、デンマークにできるスタートアップエコシステムがある。そのシステムをデザインすること、ここから生まれる企業を支えることが、社会をより良くしていく一助になると信じている」。世界を変え得る企業の“種”が、デンマークの土壌で次々に芽を出しつつある。多様な種を芽吹かせる豊かな土壌は、日本にも生まれるだろうか。End

ーー本記事はAXIS 220号(2022年12月号)からの転載です。