世田谷美術館「宮城壮太郎展」から伝わる
生活としてのデザイン

「ライフスタイルがどう変わるか?デザインに何ができるか」。

今年9月17日から11月13日まで世田谷美術館で開催された「宮城壮太郎展」のキャッチコピーだ。本展覧会は、宮城が手がけてきたデザインの数々や、仕事を共にした6名のクライアントインタビュー、そして人柄が感じられるデッサンやミニカーコレクションなどで構成されている。プロダクトから都市計画などまでその内容は多岐に渡るが、展覧会はここで終わりではない。御本人がご覧になったらきっと満点を出したであろう、キリッとしたつくりの200ページ余りの図録。この図録を読むことで、展覧会は完結する。

展示品と会場で流されたインタビューの書き起こしが掲載された図録。序文は、本展覧会の開催のきっかけをつくり、生前の宮城との仕事も多いデザインジャーナリストの髙橋美礼によるもの。展覧会での仕事を見たのち、この文章を読めば、宮城がどんなに人間味のあるデザイナーであったかを知ることができるだろう。総論を綴ったのは、展覧会企画担当の野田尚稔。宮城自身が残した文章や、宮城による父の回顧録を読み解き、一見つかみどころのない宮城像に近づくヒントを与えてくれる。また、宮城による「大学生諸君へ」というメモも収録されている。ぜひ、多くの人に読んでいただきたい。

▲「宮城壮太郎100の思い」は宮城の病気発覚後、宮城と懇意にしていた編集者の土谷真喜子がインタビューしてまとめたもの(非売品)。展覧会図録は会期後も世田谷美術館ならびにウェブサイトで購入できる。その下にあるのは、宮城の父、孝治を友人たちが回顧した伝記「虹の航跡」。知己のあった松下幸之助に息子の就職を頼んでいたが、宮城はそれを断り、浜野商品研究所に入ったという逸話も。

学芸員の野田尚稔に改めて「なぜ、宮城壮太郎だったのか」を尋ねると、「(アスクルなどの)匿名性のある仕事をしてきたデザイナーを取り上げることに意義を感じたから」という答えが返ってきた。農商務省勤務やJA共済の草創期を支える活動をしてきた父、宮城孝治を「社会改良に向けてたゆまぬ努力を続けた人」と言い、それがそのまま宮城壮太郎というデザイナー像につながると展覧会図録には記されている。宮城は展覧会のタイトルのように「使えるもの、美しいもの」を求め続けた。それは「デザイナーである自分を目立たせるもの」ではなく、一生活者として、居心地良く暮らすため、使うため、を常に考えたデザインでありコンサルティングだった。

おそらく多くの来場者が、一度は使ったことがあるステーショナリーが美術館に鎮座していることに驚いただろう。一連のアスクルの商品は、とんがりすぎず、わかりやすく、さまざまな感性の人にとっての“最大公約数”のデザインだ。

「今までのような(消費を煽る)モノづくりから早く脱却しなければならない。そのためには生活を見つめ、自分たちが欲しいものをつくるしかない」と学生やメーカー企業に伝え続けたという。

そんな宮城のデザインの中に、作家性とも言うような“宮城らしい線”を探すのは難しい。だが、「まず、何でも描いておくこと。描いてから他のことを考える」「スケッチを100枚描く。スケッチは人を説得する」(引用:「宮城壮太郎100の思い」)という言葉を残しているように、人一倍、線には厳しかった。「生活を邪魔しない」。それこそが、宮城が求めた「線」のようだ。

▲宮城壮太郎は1987年から2006年の20年間、世田谷に17坪の土地に家を建て暮らした。世田谷にゆかりのあるデザイナーであったことも世田谷美術館が彼を取り上げた理由のひとつだという。

▲チェリーテラス、アッシュコンセプト、ルボア、山洋電気、アスクルの商品が並んだ会場。宮城の仕事を自らが使っていたことにこの場で気づいた来場者も多い。

展覧会で興味深く感じたことは、宮城のその膨大な仕事量だ。独立後、宮城事務所の構成員は、模型などをつくるアルバイト1名と経理担当の宣子夫人のみであり、実質、個人のデザイン事務所だった。だが、手がけた仕事とクライアントの数には驚くほかない。

「僕は仕事と人に恵まれている」が口癖だったという宮城。浜野商品研究所で働いていた14年間の経験とそこで培った人間関係は大きな武器となり、大きな企業相手にひとりで立ち向かう素地を養った。仕事によって、最適な相手を見つけ、最良の仕事をする。それが宮城のやり方だった。ひとりだから通せる頑固さと柔軟さを最大限の武器にしたのではなかろうか。

もうひとつ、宮城の活動を支えたものとして、「数字の把握」というものもあったようだ。宣子夫人は結婚の際、会計士であった父親に「貸借対照表は理解しておくように」と言われ、経理を学んだ。宮城が独立する1988年に「Macを買うのに300万欲しい」と言われたときは、「人ひとり雇ったと考えれば良いから」と、そのお金を用意した。都心の一等地に事務所を構えるには、つねに余裕を持っていなければならないが、それにも持ち堪えた。「本当に宮城はよく働いてくれました」と言うが、あれだけの量、あれだけの規模の仕事を宮城が気持ちよくこなせたのは、お金の工面を安心して任せられる存在が大きかったことだろう。独立を目指す人は、頭の隅に置いておきたい話だ。

▲2007年、筆者が関わっていた「旭川クラフト改造計画」の勉強会の講師を宮城にお願いした。これがきっかけで指物を得意とする木工作家の青柳 勲(工房アームズ)と宮城は知り合い、「KUSAMA トレー」が誕生した。

会場で流れた、ゆかりある人物らへのインタビュー動画では、宮城壮太郎の人間としての素晴らしさを、全員が口にする。

「良い生活者で、美意識もある」(チェリーテラス会長・井出櫻子)

「ひじょうに教養豊か」(チェリーテラス相談役・井出孝利)

「信念を持って接してくれた。クライアントに媚びたり、忖度したり、そういうのは一切ない人だった」(フォース・マーケティングアンドマネージメント社長・岩田彰一郎)

宣子夫人は「人柄ではなく、デザインを褒めて欲しいのよね」と言うが、これだけ人柄を偲ばれる人物が、「デザインという社会改良」に関わったことは事実だ。「こんな良い人が、思いっきり仕事ができた日本はまだ捨てたもんじゃない」と思うのだ。End


《おまけ》
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