第18回 おわりに――見えないものと生きてゆく君へ
現下の事態は、私たちの人間性を試しているのです。こうした事態は、人間の最も悪い面と最も良い面の両方を引き出します。ならば、お互いに私たちの最良の面を示していこうではありませんか。
――フランク=ヴァルター・シュタインマイヤー ドイツ連邦共和国大統領※1
見えないものと生きてゆく時代、日々飛び込んでくるニュースは、人間の最も悪い面が引き起こす絶望的な事件でいっぱいだ。しかし、ニュースというのは、人間の最も良い面が紡ぎだす厳かな平和よりも、人間の最も悪い面が引き起こす惨劇を、ずっと大きく重々しく報じる傾向にあり、フレッド・ロジャースのお母さんが、いつも言っていたという「必ずそこにいるはずの助けようとする人」※2の良心は、往々にして、惨劇のニュースの断片に埋もれて、見えないものになってしまっている。
「世の中には、助けようとする人が、実にたくさんいるものだ。だから人は誰でも、助けようとしている人を、自分のそばに見つけることができる」という、フレッド・ロジャースの言葉を、もういちど、頭の中に響かせてみる。疑心暗鬼という、目に見えないたくさんの鬼が、絶望の歌を大声で歌いながら闊歩する中で、希望を掘り起こすことができるかどうかは、ひとえに、私自身が、気づけるかどうかにかかっている。目に見えていない人間の良心を、心に思い描くことができるかどうか、埋もれている良心の呼吸に、耳を澄ませることができるかどうか、そして、必ずそこにあるはずの良心を、発見できるかどうか――。
鬼ばかりが闊歩するように見えるこの世界も、はるか上空の星の目で見下ろしてみるならば、人間のたくさんの良心が、あちらでもこちらでも、しぶとく再生し、キラキラと光を反射させながら沸き上がり、希望という名の大気圏となって、私たちを守っているのが、見えるのだろう。だからこそ、そして、そのようにして、今この瞬間も、世界は成り立っているのだと思う。
子どもを不幸にする一番確実な方法は、いつでも、なんでも、手に入れられるようにしてやることである。なぜなら、そのようなお膳立ては、子どもが自ら工夫して、遊びを発見する才能を、確実に奪ってしまうものだから。
――ジャン・ジャック・ルソー※3
ルソーのこの警告は「見えていないものを、見つけよ」と、言われたとたんにフリーズしてしまう、現代人の不幸を、示唆していたのかもしれない。目に見える便利が、これでもか、これでもか、とお膳立てされた、よりどりみどりの時代の不幸――どうも、私たちは、いまだその中にいるようだ。しかし今、世界中に波紋を広げながら、一向に止まる気配をみせぬ、見えない脅威の大波小波は、工業化が始まって以来、人間が積み上げてきた実利と便利を制約し、停滞させ、そぎ落としている。ならばこれは、そぎ落としの波に乗って、よりどりみどりの不幸から自らを脱却させ、遊びを発見する才能を取り戻すためのチャンスだ。何者かわからなくなってしまった大きな黒い塊の中から、人間の本然を取り出すための、千載一遇のチャンスだ。
今の若者に、どんな言葉をかけようか。
そうだ私はこう言おう。「なんでもいいから、やってみなさい。どんなことでも」。
――オスカー・ニーマイヤー※4
ためらうことなく、理解しようとすることなく、ただ、そこにある良心の姿を心に思い描きながら、また今日も小さな決心をして、一歩を踏み出してみよう。人間の本然を芽吹かせるための環境を整える園丁(えんてい)として、思いつく限りの小さなことを、何でもいいからやってみよう。それで、何が解決できるのかはわからない。どこにたどりつくのかも、わからない。けれども、そうしていれば、そこにある良心が再生する瞬間――この時代の最も美しい瞬間に、必ず立ち会えるはずだから。
※1 フランク=ヴァルター・シュタインマイヤー Frank-Walter Steinmeier(1956-)ドイツ連邦共和国第12代現職大統領。2020年4月11日、パンデミック第一波の拡大に伴い都市封鎖に踏み切ったドイツで、国民に向けて行ったテレビ演説「私たちは分岐点に立っている」より抜粋。
※2 連載5「希望のありか」参照
※3 ジャン・ジャック・ルソー Jean-Jacques Rousseau (1712-1778) フランスの政治哲学者、教育思想家。教育学の古典として知られるÉmile, ou De l’éducation, 1762(エミール、または教育について)より翻訳抜粋。邦訳本「エミール」は、1962年に岩波文庫から、2021年には角川選書-シリーズ世界の思想から新訳が出ている。
※4 オスカー・ニーマイヤー Oscar Niemeyer (1907-2012) ブラジルの建築家。「ニーマイヤー104歳の最終講義―空想、建築、格差社会」(オスカー・ニーマイヤー著、阿部雅世訳、平凡社)p.41より引用。
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