芸術文明史家 鶴岡真弓がダブリンで出会ったケルト・デザインの腕時計
「ブック・オブ・ケルズ・クオーツ」

単なるファッションアイテムとしてだけではなく、個人の思い出や哲学を映し出した、象徴としての価値が腕時計にはあるはずです。腕時計をめぐる物語を大事にする、デザインにまつわるプロフェッショナルたちに、腕時計を持つ理由や出会いをうかがいました。




鶴岡真弓(芸術文明史家)

1980年代初頭に留学していたアイルランド・ダブリンの時計屋さんで出会ったのがこの「ブック・オブ・ケルズ・クオーツ」です。文字盤には私のケルト・デザイン研究のきっかけとなった、世界で最も美しい装飾写本「ケルズの書」の独特なカリグラフィが描かれていて、すごい出会いだなと思って購入しました。女性の腕にはやや大きいのですが、うれしくて、これを着けてダブリンの町を闊歩しましたね。

ヨーロッパの古層文化を築いたケルト民族は、根底に「自然崇拝」を持ち、渦巻文様などに生命循環への願いを込めました。この時計に描かれているアルファベットのdも、獅子の体でデザインされています。ヨーロッパの動物譚では、死産した獅子の赤ちゃんに父獅子が三日三晩息を吹き込んだら蘇ったという言い伝えがあり、それがキリストの復活と重ねられ、「ケルズの書」の文字にも獅子のモチーフがよく使われたのです。

美しい装飾写本を手がけた修道士たちは、デザイナーでもあった。1,200年前に自分たちが描いたものが時を経て時計にデザインされていると知ったら、修道士たちも草葉の陰で喜んでいると思います。

人生において時間というものは、減っていくのではなく積みあげられていくものだと思います。生きることは自分の持ち時間が減っていくカウントダウンではなく、それまで生きてきた時間や経験が積みあがっていく「カウントアップ」だと。生命の循環を信じるケルト民族のカリグラフィが腕時計にデザインされていることは、まさに時の蓄積の顕れのような気がします。(文/喜多見仁子、写真/田口純也)End

▲つるおか・まゆみ/多摩美術大学美術館館長。多摩美術大学芸術人類学研究所所長。ケルト芸術文化ならびユーロ=アジア装飾デザイン交流史の研究者として、芸術の起源や生命信仰の系譜を追う。「ケルト 装飾的思考」(筑摩書房)、「ケルト 再生の思想」(ちくま新書)、「装飾する魂」(平凡社)をはじめ著書多数。




本記事はデザイン誌「AXIS」208号「腕にまく未来。」(2020年12月号)からの転載です。