INTERVIEW | カルチャー
2020.05.20 09:00
明るいカラーに手触りのいいファブリック素材。近年のグーグルのプロダクトに温かさを感じるのは、同社のハードウェアデザイン部門を率いるアイビー・ロスの哲学が反映されているからだ。色や音、手触りや匂いの力を信じる彼女は今、世界最大のテック企業のプロダクトを通して、テクノロジーに人間性を取り戻そうとしている。
神経美学とテクノロジー
取材日のアイビー・ロスは、黒のタートルネックに黒のパンツ、黒のブーツという装いだった。多くのデザイナーがそうするように、彼女もまた黒の衣服しか身に着けないのかと思い撮影の後に訊いてみると、今日はたまたま黒を着たい気分だけなのだと教えてくれた。
「黒はほかの色を吸収するでしょう。昨日大きなイベントでステージに立ったばかりだから、そのぶん今日は自分の内側に籠もっていたい気分なの」と、ニューヨークで新製品発表会を終えた直後に来日したグーグルのハードウェアデザイン・バイスプレジデントは言う。
グレーの長髪に眼鏡をかけたロスは気さくで穏やかな人物で、世界で最も大きな影響力をもつテック企業の多忙なエグゼクティブというよりは、高校の美術の先生か美術館のキュレーターのように見える。
「その日の気分によって私の着る服が本当に違うものだから、夫はいつも私がどんな姿でクローゼットから出てくるか全く予想ができないと言うの。これもひとつのニューロエステティクス(神経美学)ね」。
ロスが気分と関係すると考えるのは、色だけではない。音、手触り、匂い。こうしたすべての要素が人間の感情や精神に大きく作用することを彼女は知っている。そして彼女が今グーグルでやろうとしていることは、この美的経験と脳の働きの関係を調べる神経美学のアプローチを、テクノロジーに応用することにほかならないのである。
デザインと挑戦の旅
ロスはしばしば「元ジュエリーデザイナー」として紹介されるが、彼女が「元ドラマー」でもあることはあまり知られていない。ニューヨーク州ヨンカーズに生まれ育ったロスは、子どもの頃から音とリズムに夢中になってドラムを叩いていたという。そしてレイモンド・ローウィのもとで働いていたインダストリアルデザイナーの父の影響で、自然とクリエイティブの世界に足を踏み入れていった。
当時から音楽やサウンドが人に与える影響、そして人と人をつなぐエネルギーや感情について興味をもっていたロスは、高校・大学ではアートと心理学を専攻した。その後ニューヨーク州立ファッション工科大学でジュエリーデザインを学び、23歳で自身のジュエリーブランド「スモールワンダーズ」を設立。タイタニウムやニオブといったメタル素材を使った彼女の美しいジュエリーは、スミソニアン・アメリカ美術館を含む世界中の名だたる美術館にパーマネントコレクションとして収蔵されるようになる。
20代半ばですでに世界的に注目されるジュエリーデザイナーになっていたロスは当時の経験について、「いちばんの教訓は、人生とは目的を達成したら終わるものではないということに気づけたこと」と、あるインタビューで語っている。「人生は旅のようなものなのです」。この言葉は、彼女のその後のキャリアをもよく表している。30代でインハウスデザインの世界に入ったロスは、コーチ、カルバンクライン、マテル、ディズニー、ギャップといった会社でデザイナーとして働くなかで、ファッションから時計、おもちゃに至るあらゆるプロダクトをデザインしてきた。そして2014年、ロスが新たなチャレンジとして選んだ領域が、テクノロジーの世界だった。
「私にとって『何をデザインするか』はそこまで重要ではありません。大事なのは『どうデザインするか』であり、自分の哲学をあらゆるものに応用することが好きなのです」と、彼女はこれまでのキャリアを振り返って語る。
「そして私は、いつも自分が経験したことのないことをしたいと思っている。世の中にこれだけテクノロジーが溢れている今、テックの世界は飛び込むのに面白い場所だと思ったのです」。
指揮者が変えたグーグルの音楽
約150人の多様なメンバーで構成されるグーグルのハードウェアデザインチームを率いるロスは、自身の仕事をさまざまな楽器を束ねる「オーケストラの指揮者」のようなものだと説明する。そんな彼女が、グーグルの奏でる音楽を変えてしまったことは疑いの余地がないだろう。
グーグルはここ数年で、カラフルな色合いの、ファブリック素材を使った「グーグル ピクセル」のケース、「グーグル ネスト ミニ」などのスマートスピーカーやスマートディスプレイを展開するようになった。それはロスのデザインチームが、「ヒューマン、オプティミスティック、ボールド」という新たなコンセプトのもと、機能性のみならず「それを手に持ったらどんな手触りがするだろう?」という問いを追究しながらプロダクトを設計するようになったからにほかならない。
2019年10月に発表された新製品のなかで特にロスが気に入っているのは、白くて丸みを帯びた「ピクセル バズ」のケースだ。まるで川辺の石のようなすべすべとした手触りで、持っているだけで気持ちがいい。実際にユーザーのなかには、ただケースを手に持って開けたり閉めたりするのを楽しむ人もいるのだという。
とはいえ、最初からロスが考える感性の重要性が社内で理解されていたわけではなかった。生産効率を考えれば、ケースは箱型にしたほうが遥かにつくるのが簡単だと言うエンジニアもいたという。しかしロスは、ハードウェアにおける美しさや手触りがいかに重要かを説明し、エンジニアたちと対話を重ねながら開発を進めていった。「今ではエンジニアチームも、デザイナーとともに仕事をすることの意義を理解してくれています」と彼女は誇らしげに言う。
グーグルは19年8月、マウンテンビューのキャンパスにハードウェアデザインチームのための7万平方フィートの「デザインラボ」を新設したと発表した。それはグーグルというエンジニア中心の企業が、デザインの重要性を認識したことを物語っている。
最適化に抗うためのデザイン
ロスがグーグルにジョインしてからの5年間は、デジタルテクノロジーの「負の側面」が顕在化しはじめた時期でもある。人々はスクリーンに支配され、過度な効率化やデジタル化が社会を無機質なものに変えつつある。しかしロスは、彼女が信じる色や音、手触りや匂いの力こそが、これらの問題を解決するための鍵になると考えている。
10月にグーグルが21_21 DESIGN SIGHTで行った展示会「COMMA」も、そうしたロスの考えを表したものだった。「COMMAのアイデアは、テクノロジーがあらゆる物事をますます速くしていくなかで、いかに生活をスローダウンさせることができるかというものでした」と展示会のオープニングで語ったのは、ロスとともにキュレーションを行ったトレンド予測のパイオニア、リドヴィッチ・エデルコートだ。シンプルでミニマルな見た目のグーグル製品を日本の伝統的な食器や花瓶とともに並べることで“わびさび”な景色をつくり出した展示会は、テクノロジーとスローなライフスタイルは両立できるというコンセプトをうまく表現していた。
デジタルテクノロジーが社会のあらゆるものを覆い尽くそうとしているこれからの時代において、果たしてデザイナーにはどんな役割が求められるのだろうか?
「社会は合理的な思考のためにますます最適化され、人々の感覚を生き生きとさせてくれるものも十分にあるとは言えません。それはアートにできることであり、音楽にできることであり、デザインにできることです。私はそうした感性とテクノロジーのよりよいバランスをつくりたいのです」とロスは言う。「デザイナーが常に心に留めておかなければいけないのは、私たちは人のためにここにいるということです。人類が洞窟に暮らしていた時代から、いつも道具が人間を進化させてきました。だから私たちは、自分たちが日々つくっているものに対してもこう問い続けていかなければいけません。『この道具はどうやって人々を次のレベルに引き上げてくれるのだろう?』とね」。(文/宮本裕人)
本記事はデザイン誌「AXIS」203号「Tokyo 2020 Olympics」(2020年2月号)からの転載です。