REPORT | グラフィック / 講演会・ワークショップ
2020.04.03 16:44
昨年11月、東京のkudan houseを舞台に開催されたクリエイティブフェスティバル「AnyTokyo2019」。会期に合わせて行われたトークセッションの4回目では、AnyTokyo2019に共同で作品を出展したグラフィックデザイナーの大原大次郎さんと田中義久さんをゲストに迎え、「AXIS」編集長の上條昌宏とともに、「描くの未来」について話をしました。
まずは、3人の自己紹介からスタート
上條 今日これから話すテーマは、「描くの未来」です。ゲストは、AnyTokyo2019で共同で作品を展示している大原大次郎さんと田中義久さん。作品について話す前に、テーマの「描く」という言葉を踏まえて、自己紹介からお願いします。
田中 デザイナーの田中義久です。普段は、グラフィックデザイナーとして紙媒体中心に仕事をしています。文化にまつわる仕事がメインで、美術家や作家の作品集もよくつくっています。あとは、美術館のサイン計画とか、芸術祭やアートフェアに関連したアートディレクション。今回のAnyTokyo2019全般のアートディレクションもやっています。ほかにも、「Nerhol」という肩書きでアーティストデュオとして活動しています。デザインでは筆跡がアウトプットに残るような表現を避けていますが、美術家としての活動では、紙を使った半立体の彫刻作品をつくっていて、身体的な負荷のかかる作業をやっています。
大原 大原大次郎です。グラフィックデザイナー、(田中)義久くんと同業者です。アートブックよりも、音楽関係や書籍などのブックデザインの仕事が多いです。こうした仕事と並走するかたちでワークショップなども行っています。普段の仕事で出てくる疑問があって、それは、「描くってどういうことだろう」とか「文字の正体って何?」……というようなことなのですが、そんな疑問を手探りで探しつづけながら展覧会を行ったりもしています。
上條 「AXIS」というデザイン誌の編集をしています。雑誌メディア、紙媒体が売れないと言われるなかで、それでも紙で情報を発信することにこだわっています。なぜかと言うと、ひとつはSNSのような相手の顔が見えないコミュニケーションをあまり信頼していないから。もうひとつは、紙にはスマホの画面とは違った情報が備わっていて、手に取る人の身体感覚に訴えられる部分にまだまだ可能性があると思っているんです。このあたりが、もしかしたら大原さんや田中さんの仕事とも通じる点かなと。先ほど少し打ち合わせしましたが、そこで盛り上がったテーマが「質感」でしたね。
大原 居心地がいいとか気持ちが悪いとかも含めて、質感という言葉は、わりとみんなしっくりくるのではないかなと。
田中 SNSの質感の話もしていましたね。
大原 会場にいる人に聞いてみたいのですが、インスタグラムってだいたい一投稿あたり何秒くらい見ていますか。10秒以上かける人いますか? 5秒以下の方は? 1秒以下? インスタグラムは、時間をかけて見る媒体ではないかもしれない。通常はだいたい1秒くらいで見ている人が多くて、それぞれに良し悪しなど考えずに浴びるように眺めているみたいです。それでは、何を見ているのか、ということに興味がでてきますが、そこで見ているのは質感なのではないかなと。初見は意味を考えるわけではなく、質感で。これは仮説なのですが。
田舎に生まれて、小さい頃は手掴みで魚を捕まえられた
田中 その話、すごくおもしろいと思って聞いていました。打ち合わせの後で考えていたんですが、僕は田舎生まれで、小さい頃に川遊びとか森で遊ぶ時間がわりと多かったんです。いちばん得意だったのが、ものがはっきり見えない川の水面下でも、本物の石と石亀を見分けることができたこと。石亀、獲ったことある?
大原 亀は飼っていたけど、石亀は獲ったことない。
田中 石亀って、外見はほとんど石なんです。でも、ちゃんと見分けられた。その理由が何なのかはっきりわからないけれど、もしかしたら、質感というか解像度で感覚的に見分けていたのかもしれない。
大原 マタギの人など山に分け入ることが当たり前の人たちは、それも解像度と言っていいのか、危険察知能力と言えばいいのか、あの場所にはあれが生えているとか、同じ風景を見ていても見えているものが違うらしいです。それはきっと、多様な質感のレイヤーを目にするなかで養われた能力でしょう。そう考えると、環境の影響は大きいですね。
田中 僕は当時、手づかみで魚を捕まえることもできました。泳いでいる魚はさすがに無理で、止まっている魚ですけど。水のなかって基本的に見えないんですが、そこに魚がいそうという感覚で当たりをつけ、魚が動かない気持ちで捕まえようとするとわりと獲れたんです。聞いている人は何を言ってるんだろうという感じかもしれませんが、実は作品集をつくっていて、似たようなことを感じるんです。書店で何万冊と並んだ本のなかから、この本がなんか良さそうと思って手に取ることは皆さんもありますよね。しかも、手元ではなく、遠くから興味のあるものを見分けているようなときが。なぜその本に興味を持ったかはうまく説明できないけれど、そういう感覚の共有をデザインするのが作品集では重要だと思っています。
上條 ふたりは感覚を研ぎ澄ます訓練とかって、日頃からしていますか。先日、ある写真家の方と話をしていてジムの話題になったんです。どこを鍛えているのかを聞いたら、動体視力なんです。もう70歳超えている方ですけど、高い解像度でものを捉えるために、視力を鍛えにジムに通っていると。
大原 その話でまず初めに思い浮かぶのは、「慣れ」ですかね。音楽も、1曲だけというより、同じジャンルのものを2、3曲と聴いて、耳が慣れてくると自分の好きなポイントがわかってきて、違いが判断できるようになる。紙も、触っていてこの紙とあの紙ではどこが違うと感じる感覚は、それまで触ってきた数がものをいう。量で慣らしていくのは、けっこう馬鹿にできない。
上條 量をこなすことで、身体に染み込んでいる感覚ってありますか?
田中 以前は、棚を500段ぐらいつくって、そこに紙を数千種類ストックしていました。麻雀の盲牌みたいに紙を触って、「この質感はあの製紙会社の、何々という紙だ」みたいなのをやっていて、そのときの感覚は今も身体に残っています。触ったり、曲げたり、刷ったときの感じも含めて。触ったもの勝ちですね。
付き合いが深いわけではないけど、旧知の間柄
上條 今回、共作した作品のことも聞きましょうか。「漂流物と紙」というタイトルで、会場2階の畳の部屋に展示されていますが、ふたりは銀座のクリエイションギャラリーG8での「大原の身体 田中の生態」という展覧会でも共演していました。この展覧会が今回の作品づくりにつながっている部分もあると思うのですが。
大原 話してください、「大原の身体 田中の生態」展の成り立ちを。
田中 そんなに付き合いが深いわけではないんですが、大学の頃から20年以上お互いを知っているんです。G8で展示をやるとなったときに、自分はデザイナーなので、普通に考えると今までの成果物を見せることなんですが、でも、デザイナーはクライアントに寄与するものだから、終わった後に過去のものを引っ張り出して、「これは自分の作品です」ということに違和感があった。一部を切り取って見せる時点で、もうそのデザインは機能しないし、それを見せることに意味はないと思ったんです。じゃあ、どういうかたちがあるか考えたとき、誰かのためにデザインするんだったら展覧会として成立するかなと。そこで、気になる存在であり、尊敬もできる大原さんに話を持ちかけたんです。
僕は彼の身体をどのように引き受けて、それを作品に落とし込むかを考えました。一方、大原さんは、僕がやっているデザインを大原大次郎なりに出す。詳しく話すと長くなるので今日はやめますが、G8のときに僕がやったのは、今回展示した和紙の作品の一歩手前のものです。
上條 和紙自体も不思議な構造ですよね。
大原 義久くんが考えたことを受けて、僕は手を動かす役割を担いました。「こんな感じの流動的な模様をつくってほしい」というディレクションのもと、というか、インタラクションで行った共同作業です。一方で、義久くんが日頃やっているブックデザインの手法を、ドローイングでひも解くようなことにも挑みました。
上條 和紙には、葉山などの海岸に打ち上げられていたプラスチック片などの漂流物を混ぜているんですよね。
大原 そうです。漂流物を粉砕し、和紙の素材として漉き込んでいます。
田中 僕のなかでは、常に自然物と人工物の関係は制作のテーマとしてありました。和紙は本来、自然由来のものですが、今回展示したものには人工の漂流物が漉き込んである。流木とかは入れずに、あえてプラスチックのような半永久的に残るものを重ねています。
何が本物の自然で、どこからが人工かをはっきり言える人はほとんどいませんよね。実際、僕は田舎に生まれて大自然で過ごしてきたと思い込んでましたが、大人になってあれは人工林だったと知るわけです。時代背景や捉え方によって自然物が人工物になったりするそんな状況下で、自分たちが生み出したプラスチックを、あえて自然物として捉える。そんなポジティブな見せ方として、どんな方法があるかを考えたとき、まずは和紙に人工物を混ぜてみようと。環境的に問題視されているプラスチックを肯定的に捉えるような物語をつくったらどうなるのかに興味があって、このような結果になりました。
漂白して綺麗な情報だけにすると、大事なものを取りこぼしてしまう
上條 プラスチックがノーという単純なメッセージではないわけですね。
田中 要は、身近なものをきちんと引き受けましょうということです。大きな意味で、デザインとして考えてみたということかもしれません。AXISにも紙媒体として長く続けてもらいたいけれど、大量生産、大量消費の媒体物が担ってきた情報機能の役割は、今後どんどん薄れていくのかもしれない。でも、それで全然構わないと思っています。インターネットやウェブ媒体にわかりやすく分け隔ててもらい、そのうえで何を紙が引き受けていくのか。
上條 フローな情報はデジタルに譲って、紙はそれ以外の価値を研ぎ澄ましていくという今の話はすごく共感できます。うちも、紙とデジタルを両方やっていますが、「紙はそろそろいいんじゃないか。将来はデジタル一本でやっていくことを考えてほしい」といった声が社内から聞こえてきたりすると、正直がっかりする。雑誌は確かに視覚的なものだけれど、読者が読み取っているのは文字や写真の情報だけでなく、紙質だったり、インクの匂いだったりと、視覚情報以外のこともセンシングしていて、そうした質感こそが紙媒体の魅力や価値だと思っています。AXISはまだその域に到達していませんが、この点はしっかり意識して雑誌をつくっていきたい。逆にそれをしていかないと、紙媒体を出す意味はないでしょうね。
大原 雑誌に着目すると、「雑」って言葉が好きなんです。例えば、いわゆる「雑味」とか「エグみ」とか「アク」といった、おいしいものをつくる過程で出るようなもの。雑然だったり猥雑だったり粗雑だったり、そういったものを漂白して綺麗な情報だけにしてデザインしてしまうと、大事なものを取りこぼしてしまう可能性があるのではないかと。
紙でもデジタルでも、編集という職能や、質感という手に残る記憶みたいなものが大事であることに変わりはありません。僕自身、そこで育てられたという想いがあります。小さい頃に穴を掘った記憶というのは、そのときの感覚が手に残っているからこそ思い出せる。
上條 この前、食をテーマにしたワークショップがあったんですが、参加者がいちばん興奮していたのは、食べるときではなく、自らの手で食材をむいているときでした。実際、アンケートでも「手の感覚が最後まで残っていて、味と紐付いたときに感動した」という声が多かった。視覚を通じて得た情報も間違いではないけれど、手の感覚というのはもっと繊細で、手が拾ってくる情報量は馬鹿にできない。
大原 手遊びは大人になるとどんどんしなくなるけれど、手で穴を掘るとか、裸足で地面を歩くとか、身体と遊びが直接結びつくものっておもしろいですね。社会性が問われるのであまり大声では言えませんが、僕は裸足で都市を歩いてみたかったので、靴底に穴を開けて散歩したことがあります。そういうのを、公然とできるといいですね。
田中 そういうこねくりまわし方を、よくしますよね。
大原 めんどくさいよね。
なぜ新聞を拾って集めて、重ねて切ったか?
上條 ふたりの展示を見た人は気づいていると思いますが、会場の奥に、新聞紙の束がドーンと積まれていました。東日本大震災のときに廃棄された新聞紙を田中さんが集めて、まとめたものですよね。
田中 作品解説のテキストにも書きましたが、当時、数カ月にわたって何であんなことをやったのかわからないんです。新聞を拾って持ち帰り、ランダムに重ねて、断裁機で断裁して二つ折りにする、ただそれだけ。でも、でき上がったものを見ると意外におもしろく、今まで見たことのない新聞になっていたんです。そのとき気づいたのは、いかに自分が整理整頓された世界でものごとを享受しているかということ。(未曾有の震災という)あのタイミングで、新聞社のヒエラルキーも関係なく、ものごとを冷静に見つめることができたのはいい体験でした。
上條 メディアの情報の多くは、整理整頓され、わかりやすく加工されたかたちで発信されます。でもそれが本当に正しいのか、もうちょっと違ったアングルから見ると別の視点があることに気づく。そんなことを実感できる機会って、あまりないのかもしれません。何の意図もなく情報をシャッフルして、構造に新しい視点を見出すというアプローチは興味深いです。
田中 視覚伝達デザインの視点で言うと、プロバガンダとまでは言わないけれど、良識の範囲内で伝えるのが我々デザイナーの仕事です。でも実際、鳥の目になれているのか、宇宙を俯瞰するような目線でものごとを捉えているかというと、そんなことは決してなく、無意識のうちに情報に侵食されていたりします。そうしたなかでも、冷静に自分を保ち続けられる手段を持っておくことは大切で、その気持ちが強くなったのが、震災以降かなと思っています。
上條 今回のAnyTokyoで、あえてこの作品を展示した狙いは?
田中 見たらおもしろい。それを、「どうですか」という感じで共有したかったんです。
大原 僕の感想もいいですか。もし、極限状態になったとき、人はどうやって正気を取り戻し、次のアクションに向けた第一歩を踏み出すのか、その第一歩が気になるんです。あの作品は、そういう行為にも見えて、義久くんがなぜ新聞を綴じようとか、切ってみようという行為に及んだのか、僕はそこに興味があります。あんな出来事があった後の第一歩として見ると、すごく重みを感じる作品ですね。
非定着なものをどう留めるか
上條 そろそろ質問の時間に入りましょうか。
田中 それでは、事前にいただいた質問のなかから。
上條 「紙がなくなることはないと思っているのですが、将来的に紙が貴重なものになったらどうしますか? 紙に変わる媒体はあると思いますか?」
田中 今日話していたことが答えになっちゃっているかな。僕の考えとしては、紙は確実に減りますし、日本には紙の種類が多すぎる。おそらく2万種類くらいあると思います。その多くは、同じような顔をしていて、ちょっと色が薄いとか濃いといった違いでしかない。
おもしろい話としては、雑誌の売り上げ部数は減っていますが、タイトル数は増えているんです。ニッチで、マニアックな内容へのニーズは伸びている。紙自体もそうなればいいと思っています。500人に届けるための紙とか、1枚50万円する紙とか、今までの消費とは違った発想で取り組めばいくらでも紙の未来はある。インターネットが発達して情報過多の時代だからこそ、紙の良さを改めて感じ取れる。そこに未来があると思っています。
上條 最近、紙を確保するのがけっこう難しくなっていて、印刷会社からかなり先の号まで発注を求められたりします。人気のある紙にはどうしても需要が殺到してしまうんです。だったら、自分たちでオリジナルの紙を作って、市況に左右されず、自由に使いたいというのが僕の野望です。専用フォントもあるので、次は専用ペーパー。そこからも、雑誌に込めた想いを届けられたらいいなと思っています。
大原 「書く」という行為は、もともと亀の甲羅や動物の骨、岩などに痕跡を「掻く・欠く」ことで始まったと言われています。そして、媒体として流布させるときに印刷技術が誕生し、紙のニーズが生まれました。
一方、「話す」は「離す・放す」が語源だと言われます。今回展示したモビールのようななものはそのちょうど中間で、文字が空を漂っているイメージです。フワフワして定着しないものを地球上で成立させるのは案外難しい。僕は、描くと話すのちょうど間の空気中に漂うような、非定着なものに興味があります。
田中 紙に変わるものとして、ってこと?
大原 本当に空気中に文字が書けたり、飛ばせるかはわからないけれど、今後例えば無重力空間や空気のなかでどう文字が読まれていくかには可能性を感じます
「デザインとアートの違いは?」
質問者 デザインはユニバーサルなものである一方、アートは必ずしもそうじゃなくて、何でもありみたいなところがあると思います。田中さんは両方を手がけられていますが、互いを行き来するうえで迷うことってありますか?
田中 自分はもともと美術家として活動する気がなくて、中学の頃にはデザイナーになろうと決めていました。今から12、3年前に、彫刻家の飯田竜太と出会ってNerholを結成するんですが、そのときは自分と彼との違いや、共有できるものが何かを考えました。
デザインとアートの違いをセオリーで言えば、歴史的背景がぜんぜん違います。アートには何百年にわたって築かれたルールがあり、それに則って評価が下される。また、ルールに則っていないからダメという単純な話でもないんです。そして、その世界はとても排他的に存在しています。一方、デザインはクライアントがいるかいないかが評価軸です。クライアントにいかに貢献するかが対象になるということは、一見開かれた世界のように見えます。しかし、評価軸が立場によって変化する問題をはらみ、優れたデザインかどうかの判断基準が、専門家以外では曖昧になってしまいます。
ちなみに、僕はクライアントがいないとデザインできないです。アートは自分のやりたいこと、訴えたい思いが起点になっているので、そこがはっきり分かれます。
上條 大原さんはどうですか?
大原 書や作字みたいなものと、言葉の違いはけっこう難しかったりしますよね。一発で仕留めるような精神性がものをいう世界と、コミュニケーションの構築が必要な領域とでは、文字の書き出し方がまったく違ってきます。手書きという行為が消失すると、そこに込められた精神性まで削ぎ落とされてしまう。
上條 手書きって、やっぱり人格が出る。だから誌面掲載用の情報として、取材先にはできるだけ手書きのスケッチやラフの提供をお願いするんです。でも、最近はほとんどレンダリング。これだと誰が描いたのか見分けがつきません。
田中 あとで名刺交換してもらえればわかるんですけど、大原さんは名刺をその都度、自分で書くんです。身体性を定着させているのがおもしろいというか、大原さんらしいなと思って見ています。
僕がもし大原さんが名刺でやっていることを引き受けるなら、筆跡を文字に残すことはしないので、紙を破くかな。そうした変化を受け入れることで、未来に対して何かを考えるきっかけになる。それがデザイナーとしての真摯な態度だと思います。
上條 時間になったので、このあたりで今日のトークを締めたいと思います。最後に、大原さんと田中さんに大きな拍手をお願いします。(文/廣川淳哉)