イサム・ノグチを魅了した伊達冠石とは?
大蔵山スタジオ代表・山田能資、陶芸家・近藤高弘インタビュー

宮城県南部丸森町に位置する大蔵山は、2千万年前、火山が噴き上げ、マグマが冷え固まって形成された。その山が、二度も海底に沈み激しい地殻変動を経て生み出したのが、彫刻家、イサム・ノグチをはじめ多くのアーティスト、デザイナーたちを魅了してきた伊達冠石(だてかんむりいし)だ。世界唯一の産出地に根をおろし、石材の生産・加工メーカーとしてこの石の魅力を発信してきた大蔵山スタジオ代表の山田能資が、今秋、新作をコラボレートした陶芸家、近藤高弘とともに、石から受けるインスピレーションについて語ってくれた。




山文化の継承者として

大蔵山スタジオを受け継いだ5代目代表・山田能資は、20代の頃、5年間イギリスに滞在していた。その間、イギリス南西部エイブベリーのストーンサークルからフランスのカルナック遺跡まで、ヨーロッパに点在する巨石文明跡をくまなく見て回ったという。

「石の前に立つと、いつもなにかしら力を感じたんですよ」(山田)。

山田が表現する「なにかしら」には、神性や浄化性などの自然への畏怖だけではなく、本能的にプリミティブな感覚を呼び覚ますエネルギーも含まれる。

「昔の人は理屈で考える前に、もっとピュアな感性で石と向き合っていたように思います。石が持っている力強さや、造形的な美しさを素直に受け入れ、母なる大地にシンボリックに祀ってきた。その感性は現代に生きる人々の中にも、潜在的に生きているのではないでしょうか」。




▲やまだ・たかすけ/1980年宮城県生まれ。玉川大学文学部英米文学科、英国セントラル・セント・マーチンズ芸術大学グラフィックデザイン科卒業。2008年山田石材計画(現・大蔵山スタジオ)に入社。国内外のクリエイターとの協業や自社でのプロダクト開発、文化事業など幅広く手がける。17年より代表取締役社長。©五十嵐絢哉/Junya Igarashi




実は大蔵山の採掘場跡地にも12本の伊達冠石に囲まれた小さなストーンサークルが存在する。中央には石舞台も設置されており、人々と自然の交信のシンボルとして機能してきた。

「大正時代に初代が伊達冠石の採掘を開始してから、およそ100年の歳月が経ちます。4代目である父は、わが家の生業であるとはいえ、採掘によって里山の風景が壊れていくことを憂いていました。そこで、このような施設をつくり、地元の方々や関心のある方々に山を開放したいと、モンゴル舞踏の馬頭琴や、チェンバロ、オカリナの演奏会などを開催してきたんです」。


▲大蔵山スタジオ敷地内にある石舞台野外劇場(写真上)と、大蔵山スタジオで採掘される伊達冠石の原石。©Isao Hashinoki

スタジオの敷地内は、石舞台の野外劇場の他にも、最大級の伊達冠石を神として祀った「現代イワクラ」や木と石による温かみのある「山堂サロン」など、さまざまな文化施設を擁する。そこには、山田の父、4代目の「山にいのちを返す」という理念が込められている。

「私たちが今、アート、デザイン、建築など多種多様な分野で活躍されているクリエイターと伊達冠石を通してコラボレートしているのは、4代目が巨石を祀り、音楽を通してメッセージを発信していたのと同様に、現代人が忘れかけている自然に対する畏敬の念や感謝の気持ちを現代の生活空間の中に提案し、気づきを与えていきたいからなんです」。

▲大蔵山スタジオ「Kon Pac」 Design by Takasuke Yamada




素材を通し、人と自然を結ぶ

京都に住む近藤高弘は、まったく別の縁から伊達冠石に出会い、さらにはこの石の分身ともいうべき赤土に引き寄せられた。今から10年前、近藤は、奈良県吉野の天河神社に「天河火間」(てんかわかま)という穴窯を造営した。その折、窯の向かいに、石舞台をつくりたいと考えた。


▲奈良県吉野郡の天河神社にある「天河火間」©天河神社

「窯の奥には社殿もあり、吉野の山も広がっている。そこで、窯のコンセプトを『人間と自然をつなぐ間の窯』にしたんです。その窯の前に、奉納の舞を捧げられるような石舞台が欲しかった。宮司さんにそう伝えると、滅多に手に入らないという御神石を宮城県から見つけてきてくださったんです」。

それが、近藤が初めて目にした伊達冠石だった。

「ほんまに大きな石で、圧倒的なエネルギーを感じましたが、なにより表面の錆びた感じ、そのなんとも言えん風合いに魅了されました」(近藤)。




▲こんどう・たかひろ/1958年京都府生まれ。陶芸家。大学卒業後、京都市工業試験場研修生を経て、陶芸家の父・近藤 濶の工房で修行。文化庁派遣芸術家在外研修員、エディンバラ芸術大学修士課程修了。メトロポリタン美術館、スコットランド国立博物館、ギメ美術館ほかパブリックコレクション多数。©五十嵐絢哉/Junya Igarashi




もともと宮城県にも縁があった近藤は、約25年前、刈田郡の七ヶ宿町の高校に登り窯をつくった。思いがけず学校の裏側から良質の粘土が見つかったことから、これまで毎年、生徒や地域の人々とともに陶芸のワークショップを実施している。

「七ヶ宿町の土を扱ってから、僕の中に風土に根差した素材でつくる、言うなれば陶器の地産地消というコンセプトが生まれたんやと思います」。

素材を通し、人と自然を結びたい。奇しくも、山田の思いを共有していた近藤は、2018年の夏、予期しなかった縁に手繰り寄せられ、大蔵山スタジオを訪ねることになる。そこで心を奪われたのが、伊達冠石が風化し、鮮やかな赤い土となった、大蔵寂土(おおくらさびつち)だった。

▲大蔵寂土は、左官職人の上塗り土や、染色や絵画に用いる顔料などへの活用に向けた研究が進められている。©Isao Hashinoki

「僕自身、いずれこの土を使ってなにかできればという漠然とした期待はあったんですが、まさか近藤さんが、これほど赤土に魅せられるとは思いもよりませんでした」(山田)。

この土の名に、錆色の「錆」ではなく、あえて「寂」を用いたのは、近藤からの助言によるものだという。京都に戻った近藤は、山田から送られてきた土嚢詰めの大蔵寂土を使って、さっそく試作品に取り組んだ。




意志を持つ土、そして石

作品は想像以上のでき栄えだったという。

「大蔵山の土の面白いんはね、割れたがるんですよ(笑)」。

近藤は石の性格、生命力をそう表現した。器にするにせよ、釉薬として使うにせよ、乾燥時に、絶妙なクラック(割れ目)が生じると言うのだ。

「普通はね、それは、失敗作になるんかもしれません。でも、そないに割れたがるんやったら、土の持つ性質をリスペクトし、そのまま造形に生かす作品をつくったほうがいいんです」。

▲「大蔵寂土碗」(近藤高弘)©五十嵐絢哉/Junya Igarashi

彼は、大蔵山を訪れた折、山田からイサム・ノグチが伊達冠石に接するときの逸話を聞いていた。「自然のまま生かすところと、手を加えるところの見極めこそが大切だ」。ノグチのそんな素材への向き合い方は、近藤がここ数年、新たに掲げてきた「作為、無作為」という創作テーマと重なった。クラック以外にも驚かされたのが、金と銀の器の焼き上がりだった。釉薬に大蔵寂土を使ったところ、鉄やマンガンなど金属加工物をいっさい入れなかったにも関わらず、焼成温度の加減によって、驚くように美しいメタリックな質感が生まれたのだ。作為性が感じられる飽きのくる金や銀ではなく、安っぽくない深みのある仕上がり。

「京ことばで表現すると『やすけなくない』風合いになるんです。大蔵寂土の成分分析はあえてせんほうがいい。おそらく、不純物が極力混ざらず、ピュアな状態で堆積したからこそ、こういう自然のマジックが起こるんやと思います」。




「夜の水庭に、謡い、舞い、」

©五十嵐絢哉/Junya Igarashi

10月の始め、近藤はこの土を使い、山田とともに、栃木県那須高原の「アートビオトープ那須」でインスタレーションを行った。建築家の石上純也が手がけた水庭の池およそ50面に、自ら手がけた丸い水盤のような器を浮かべ、その上で薪の火を焚いたのだ。

夕暮れ時、森の中に幻想的な風景が現れ、能楽師、安田 登の舞を取り囲んだのちに漆黒の闇へと溶けていった。


▲アートビオトープ那須で開催されたナイトイベント「夜の水庭に、謡い、舞い、」のインスタレーション。©五十嵐絢哉/Junya Igarashi

「昼間の水庭を見たときにはね、作家さんの世界が完結してるんで、これはもう、なんもせんほうがいいな、と感じました。あえてなにかコラボレートするのなら、照明がまったくない森に、自然の火を介在させることで、水庭の空間の魅力を別の角度から引き出せるかもしれないと思ったんです」。

器が水に浮かんでいるように見せるため、台座には、伊達冠石が使われた。

「火、土、水、石、という自然の四元素が2千万年前の時とつながり、循環した作品になりました。感動的な光景でした」(山田)。

▲アートビオトープ那須の水庭に浮かべられた大蔵寂土製の器。©五十嵐絢哉/Junya Igarashi

土そのものが「ひとつの生命、意志を持っている」と語る近藤。その「根源的な生命力を多くの人に伝えていければ」と願う山田。これからも、大蔵山の土や石の「なにかしら」の力が、無作為の縁をつなぎ続け、アーティストやデザイナーの創作意欲を刺激していくことだろう。(文/岸上雅由子)End




本記事はデザイン誌「AXIS」202号「クルマ2030」(2019年12月号)からの転載です。