なぜご飯には箸、カレーにはスプーンを使うのか?
食器と料理と食事の不思議な関係 問屋の気づき

▲箸が使えない時、谷由起子さんのラオスの布のケースに平岡正弘さんの拭き漆のカトラリーを持ち歩いて、気分を盛り上げた。

あっという間に2020年も一ヶ月が過ぎようとしている。そういえば、去年の今頃は入院をしていた。わずか数日の入院だったが、その間に気づいたことがあった。

2011年。東日本大震災被災地のボランティアに参加した。作業を終え、持参したレトルトカレーとレトルトパックの米を温め、いざ食べようとした時、大変なことに気づいた。用意したのは箸のみ。仕方なく、箸で食べたのだが、はっきり言ってまずい。スプーンでご飯とカレーが一体となって口に運ばれるのと、箸でカレーにご飯を絡みとり、つまんで食べるのと、食材の構成要素も味も同じはずなのに、どうしてこんなに違うのだろう。

ステーキなら箸で摘んで食べても、フォークで刺して食べるのと同じように美味しいのに、なぜカレーは違うのか。 “つまむ”と “刺す”は近似しているが、スプーンで“すくう”が全く別物であることに気づいた瞬間だった。

それ以降、スプーンと箸の組み合わせさえあれば、どんな時でも美味しく食事が出来る、という法則が自分の中でできた。だが、それも今回の入院で打ち砕かれた。

昨年の1月、ひょんなことから利き腕の右の肘を骨折。手術前後の数日間、利き腕は使えない状態だった。和食の食事のトレーに添えてあるのは最強の組み合わせのスプーンと箸。左手で箸が使えず、おかずをスプーンですくう。ところが、“すくう”のが、どうにも味気ない。

そこで、次の食事にはフォークもつけてもらうように頼んだ。フォークで小鉢のおかずを食べる。いや、やはりまずい。おかず、特に和食のおかずはフォークでもスプーンでもなく、やはり箸で食べるものだった。口に入る時の“なめる”と“噛む”という舌の食感の違い、二本指で箸を操り“つまむ”と、カトラリーの柄を“握る“感覚の違い、そして“和の惣菜は箸で食べる”という無意識の条件反射が絡みあい、味わいを邪魔するのだった。あとは、うつわとのバランスだろう。

和食に多用される小鉢。この小鉢とスプーン、フォークとのバランスが悪いのだ。この時ほど、箸のありがたみを感じたことはない。カレーの時には箸を呪ったのに、自分勝手なものだ。

▲病院食のトレーには「めん禁・おにぎり」と、書いてある札が置かれてあった。利き腕を使えない人への配慮。

主食であるご飯は茶碗一杯分をおむすびにしてあった。毎食、おかずはスプーンやフォークですくい、左手でおむすびを食べながら、この配慮に感謝した。もし、ご飯が普通に茶碗によそわれ、それをスプーンですくわなければならなかったら、さぞ、侘しい気分になっただろう。おかず以上に、ご飯は箸で食べたい。いや、箸でなければならない。

“この箸でなければ”、”このスプーンでなければ“、”この茶碗でなければ”、”この小鉢でなければ“と言ったこだわりを言い訳に、今日も食卓周りの道具が増えている。こだわりもあるが、新しい道具に出会い、手に入れ、使うことが単に楽しいのだ。

昨今は、急須を使ったことがなかったり、味噌汁をマグカップで飲む若者も増えているという。いわゆるワンプレートのカフェ飯はご飯茶碗も使わない。だが、うつわは面白い。口は一つなのに、汁椀も飯碗も両手に余る数以上揃えている人間としては、こんな時代でも、この楽しみを今年も一人でも多くの人に伝えていきたいと思うのだった。End

▲2020年。新しく始まった仕事は、「暮しの手帖」の北川史織新編集長からお声がけ頂いた新連載、『あれや、これや。道具の話』。美しい写真を撮られる白井亮さんに“使い方を失敗した例だから、もっとブサイクに撮って”と、無理なリクエストをして苦労させてしまった。

前回のおまけ》

民藝の生きた歴史を知りたい人にぜひ、読んでもらいたいのは、「銀座たくみ」の小冊子、志賀直邦さんの『民藝の歴史』(筑摩書房)。

▲志賀直邦さんの『民藝の歴史』。銀座たくみさんでは、サイン本が入手できる。