メルボルンNo.1のカフェオーナーが挑んだ、シェフを健康にするためのファームという取り組み

▲マルベリーグループの創設者でCEOのNathan Tolemanさん。この日の取材は、オープンしたばかりのレストランHazelにて Photos by Reiji Yamakura

メルボルンのガイドブックに必ず掲載されるとともに、地元の人々にとっては憩いの場と言える3つの人気カフェを仕掛けてきたキーパーソン。それが、今回紹介するNathan Tolemanだ。2018年末には地元メディアがいっせいに彼の率いるマルベリーグループが3店舗すべてを売却したというニュースを伝えた。そのうちの1店舗は、以前紹介した「Higher Ground」だ。一方で彼らは、2019年5月と7月は新店舗を開店。さらに10月には2店舗をオープンさせるといった具合に出店攻勢をかけている。

▲Common Ground Projectは、シェフに農作業やメディテーションなどのマインドフルネスの機会を提供したいというコンセプト通り、カフェ周囲に畑が広がり、子どものためのブランコなどもあって平日も家族連れで賑わう

シェフがリフレッシュするためのファーム

Nathan Toleman率いるマルベリーグループが現在運営する4店舗のうち、7月に開業したCommon Ground Projectを訪れたとき、その社会的なコンセプトに驚かされた。市内中心部からクルマで1時間半ほどのFreshwater Creekにあり、カフェではなく“ファーム”を拠点とする取り組みだったからだ。

▲メルボルンの中心部からクルマで1時間半、South Geelongよりも少し南に下った場所にあるCommon Ground Projectのエントランス。向かい側には牧場がある

▲Common Ground Projectのカフェにはテラス席も。客席の間を鶏が走り回っている

「Common Ground Projectは、これまで手がけた飲食店とはまったく違うアプローチから生まれた。利益のためではなく、メルボルンで働くシェフをターゲットにした“ソーシャルエンタープライズ”として始めたんだ。始まりは2年ほど前から、週末に畑仕事をやるようになったこと。平日はその畑が空いているので、知り合いのシェフに週1度くらい野菜を育てに来ないかって声を掛けたんだ。すると彼はすっかり農作業にはまり、最終的には週のほとんどを畑で過ごし、合間にシェフの仕事をするようになっていった。そして、身も心も生まれ変わったように健康になったんだ。ホスピタリティビジネスで働くシェフたちにはプレッシャーや長時間労働などで疲れている人が多いからね。土いじりをすることで、彼らのメンタルヘルスを改善できないかというアイデアが、このプロジェクトの発端になった」。

▲Common Ground Projectのカフェで楽しそうに働くマルベリーグループのチーム

▲トップライトから外光が注ぐカフェカウンター。既存建物をリノベーションするにあたり、Nathan自身が設計したという

そこでNathanは新たな畑を入手し、1週間あたり230豪ドルの会費を払ったレストランから週1日派遣されてくるシェフを迎える。シェフはそこで朝のメディテーションに始まり、野菜を育てて収穫するといったマインドフルネスを促すプログラムを体験するのだ。同時にレストランは畑で採れた新鮮な野菜を受け取ることができるが、それがこのプログラムの主眼ではない。忙しい日常から離れてシェフがリフレッシュすること、また、自分が育てた野菜を調理する喜びをシェフに与え、その恩恵をエンドユーザーであるレストランの顧客にまで届けようという意図だ。顧客にとってはファーム内のカフェで採れたばかりの野菜を使ったメニューを楽しむことができ、それが地域コミュニティの新たな中心にもなりつつある。

「シェフを対象にした、このような取り組みは世界でも例がないのでは。私たちは、レストランで働く仲間たちは大切な資産と考えている。もちろん、お客さんは大事だけれど、そこで働く人がハッピーじゃないといけないよね」と語る。

▲マネージャーのSamによれば、ファーム内で取れた新鮮な野菜を使ったサラダやサンドイッチが人気とのこと

▲ペイストリーコーナーの手書きPOPが家庭的な雰囲気を醸し出す

オフィスビルで働く人が行きたくなるようなカフェ

続いて、メルボルンシティの中心部にオープンさせた3店舗について話を聞いた。立地はすべて、グーグルなど有力企業が入居するT&Gビルディング内にあり、ロビー階のカフェ「Liminal」が2019年5月に、1、2階のレストラン「Hazel」が10月14日、地下1階のバー「Dessous」が10月21日にオープンした。

まず、どうして「Kettle Black」「Top Paddock」「Higher Ground」という好調のカフェ3店舗すべてを売却するという決断ができたかを尋ねると、「今でもカフェという業態は大好きだけれど、私は常に新しいタイプのものをつくりたい。それらの3店舗を運営することは喜びだったけれど、ちょっと快適過ぎると感じるようになっていた」。

▲外資系企業が多く入る大規模オフィスビルのロビー階にオープンしたカフェ「Liminal」

▲ビル内のメイン通路と並行に寄り添うように計画されている。設計はHana Hakim率いるメルボルン有数のインテリアデザイン事務所The Stella Collective

今やメルボルンの街は、その豊かなカフェカルチャーで広く知られるようになったが、渦中にいるNathanの見方は冷静だ。

「13年前に最初のカフェをオープンしたとき、メルボルンの人々のカフェに対する期待値は今よりもずっと低かった。私たちは、そのスタンダードを少しずつ上げてきた自負がある。これまで手がけてきたカフェでは、従来のカフェとのちょっとした違いや、カフェとレストランの中間に位置付けられるものを目指してやってきた。でも今のメルボルンにそうしたカフェは数多くあるし、コピーとは言わないけれど、ひとつのスタイルが流行ると、それと似た印象の店が増える。だから、これまでとは異なる挑戦をしたいと思ったんだよ。Liminalは、私たちにとって初となる大規模オフィスビル内のカフェだ」。

▲通路を行き交う人は多いが、天井の高さと特徴的な家具により、カフェと通路はほど良く分断されている

▲店内一角のワインセラーとグロサリーショップエリア。左奥に見えるのは個室への入り口

ダークグリーンを巧みに取り入れた品のあるインテリアデザインについては、「オフィスビルで働く人は、たいてい昼休みやひと息つきたいときに、ビルを出たいと思うだろう。だからこそ、Liminalではワーカーたちが行きたくなるような場所を目指した。オフィスビルに求められる機能を考慮したうえで、デザインの言語は、ビル内の雰囲気との調和を心がけた。また、温かみがあって、レジデンシャルな空気感を持たせるために家庭のようなキッチンカウンターを設けている」。

▲ランチミーティングなどに利用できる個室。オリジナルテーブルやカウンター素材には柄の異なる天然石が多用され、視覚的にも手触りでも本物感が味わえるデザイン

店内には、持ち帰りメニューをさっと食べることのできるハイカウンターがレジ前にあるほかは、ソファタイプの席を数多く設けたオールデイダイニングのようなつくりだ。注目すべきは、店内の一角にワインセラーとグロサリーストアを設けたこと。また、ワインセラーの奥には10人以上がビジネスミーティングに使える個室が用意されている。

▲正面の持ち帰り専用カウンター前には、買ったばかりのコーヒーやデリメニューを食べるためのハイカウンター席が設けられている

▲コーヒーマシン横にある、持ち帰りメニューのサンドイッチやサラダのディスプレイ

生き生きと働くシェフの空気が客にも伝わる

このビル内の3店舗を設計したのは、かつてカフェ「Kettle Black」のデザインを手がけたメルボルンのインテリアデザイン事務所The Stella Collectiveだ。キッチンカウンターのディテールや、そっと音もなく閉まるキッチンの引き出しなど、彼女たちは完璧に仕上げてくれたと嬉しそうにNathanはその機能を紹介した。

▲Liminalと同じオフィスビルにあるが、裏路地側にメインエントランスを構えるレストラン「Hazel」。Nathanらにとって初の本格レストラン業態。地階のバー含め設計はThe Stella Collevtiveが手がけた

▲1階のバーカウンター。カウンター内部もゆったりとしており、働きやすさを意識したぜいたくな設計とNathan

Liminalと共用通路を挟んで背中合わせに位置するレストラン「Hazel」は、メインエントランスが飲食店の多く並ぶ裏路地のフリンダースレーンに向けた好立地にある。「Hazelで設計者に伝えたキーワードは“Less is more”。近頃、メルボルンの飲食店はオーバーデザインになっており、消費者は個性が強いものや奇抜なデザインに鈍感になっていると感じていた。つまり、デザインで差別化する方法は昔ほど効果的でないように思えた。そこで、アンチデザインの空間にしてみようと、実用性を重視し、控えめな色使いのニュートラルな空間を目指して設計してもらった。もちろん、お客さんを歓迎するような温かみを盛り込むことは忘れずにね」。

▲バーカウンターにはピンク色の天然石を使用。耐火被覆した丸柱と磨き仕上げの石材の対比が面白い

▲ステージのように象徴的な2階の広々としたオープンキッチン。フードは、新鮮な素材を生かしたメニューが中心で、高価にし過ぎないように配慮したとのこと

Nathanがこれまで手がけてきた飲食店の空間デザインはどれも上質で心地いい。何か秘訣があるかと尋ねると、意外な答えが返ってきた。

「私は学生時代にホテルマネジメントを学び、レストランビジネスの道に進んだのだけれど、同時に建築家になりたいと思っていて、30歳頃にストアデザインの会社で働いたことがある。当時は、6年間も建築の大学に行って一から勉強する気にはなれなかったけれど、空間デザインにとても興味があったからね。そこで実践的な経験を積んだことが、その後の店づくりに生きていると思う。初期の4、5店舗は自分たちで設計していたし、Common Ground Projectのカフェでは久しぶりに私がデザインしたんだ。自分たちの手で何かつくるというのは今でも楽しいからね」。

▲シェフズテーブルのような臨場感溢れるカウンター席。厨房内のコールドテーブルの扉や取っ手までが丁寧にデザインされている

そして、現場に立つシェフを巻き込み、チーム一体となって店づくりをしてきた彼らしいエピソードも教えてくれた。「私たちがいつも気をつけているのは、シェフやスタッフが働きやすい店をつくること。実は、1店目のカフェでは客席を最大限に確保したぶんキッチンが狭くなり、シェフには不評だった。その経験から今は、働く人が第一になるレイアウトを重視しているんだ。例えば、Hazelの2階では、外光の入る店内の一番良いエリアを広々としたオープンキッチンにしている。シェフが生き生きと働くことで、お客さんと気持ちよくコミュニケーションが取れるし、食事をする人たちにもその空気は伝播するんだよ」。

▲裏通りのフリンダースレーン側から見たHazel外観。オーストラリアらしい鮮やかでクラシカルな外観から一転、店内ではニュートラルでシンプルなインテリアが迎える

業態は違っても大切なことを同じ、それを熱心に続けること

ニュートラルで明るいHazelに対し、地下にあるバー「Dessous」は対照的に、薄暗く親密な雰囲気だ。「バーで食べ物が充実しているところは少ないけれど、ここでは軽食ながら夕食として満足してもらえるメニューを揃えた。また、Hazelで食事した後に飲みに来てもらってもいいし、ちょっとワインを飲んで、そのまま一晩中いたくなるような長居できる場所にしたかったんだ」。

▲フランス語で階下を意味するDessousと名付けられたバー。カウンターはダークグリーンの蛇紋岩

最後に、今後の店舗展開について尋ねると、「私たちは13年間、メルボルンで飲食ビジネスをしてきたが、カフェやバーなど業態は違っても大切なことは共通している。よくできた空間と雰囲気が心地良さをつくり、良いスタッフが良いサービスをする。あとは、良い食事とドリンク、それだけだ。私たちはカフェで、これらを熱心に続けてきただけ。オープンしたばかりのレストランでもバーでも同じことを徹底したいと思う。私たちには投資家がついているわけでもなく、自分たちでマネージメントできる範囲で成長してきた。ひとつ恐れているのは、私たちの手に負えない数の店舗を持ってしまうことだ。他の都市や、国外のプロジェクトに興味があるかと言えば、確かに海外にも好きな街はあるよ、アメリカの西海岸だったり、日本もそうだ。日本には若い頃に一時期住んでいたことがあるからね。ただ、今の4店舗を見据えたときに、それまでの3店舗と合わせて運営するという選択肢はなかった。たとえて言うなら、着心地がいい同じ服を10年間着ているみたいな感じだったからね。そろそろちょっと新しい服を着たいな、というタイミングだったんだ」。

▲Dessousのショップカード。Liminal、Hazelともに、ブランディングはメルボルンのアートディレクター、Jess Wrightによるもの

Nathanの店舗に行くと、マルベリーグループで働くことに誇りを持つスタッフのにこやかな対応が印象に残る。数多くの人気店が彼らのもとから誕生してきた理由を考えると、CEOである彼自身が気負わず、しかし、成功に満足せずに挑戦を続けるマインドがまずひとつ。そして、シェフやスタッフを大切にする思い。そして、独立企業として外部からのバックアップを受けずに、自分たちでマネージメントできる範囲で、着実に前進してきた経験。これらの三要素が重なり合い、他者が追随できないマルベリーグループ独自のカルチャーが育まれていると感じた。End