奄美大島の民家を宿泊施設に。「伝泊」の魅力。

奄美大島の伝統を残し、文化を経験することができるユニークな宿泊施設が誕生した。建築家、山下保博のまちづくりへの想いから生まれた「伝泊」を見に、奄美大島北部を訪ねた。

空き家対策から始まった宿泊施設

奄美大島の夜の闇は濃密だ。
すぐ目の前に浜辺が広がる宿では、穏やかな波の音と、テケテケテケと一定のリズムで鳴き続ける姿の見えない生物の声がする。

「暗くなったら、草むらには入らないでください」と注意されたハブが暗闇のどこかに潜んでいるかと思うと緊張もするが、一晩だけで朝には散ってしまうという近くの民家の庭先に咲くサガリバナの甘酸っぱい蠱惑的な香りが、汗ばむ気温とともに気分を解放的にさせる。浜辺には街路灯がない。ときおり走るクルマのヘッドライトの光で、入り江の対岸の道路の位置がようやくわかる。普段はもっと暗いのだろうが、奄美を訪れた日は、十七夜。月の光が明るく、空を見上げると星だけでなく、台風直後の早い雲の流れがよくわかった。

▲暗闇のなかに咲くサガリバナ。一晩だけ花を咲かせ、朝には散ってしまうはかなさから幻の花と言われる。

こうした奄美の空気を味わうことができる宿泊施設「伝泊」を建築家の山下保博が設計・運営し始めたのは、自分の生まれ育った地元から、空き家をどうにかできないかと相談を受けたのがきっかけだ。奄美大島のある鹿児島県は、人口減少にあり、2013年度の総務省の統計によれば、空き家率は、11.04%と全国一になっている。

山下は、そうした空き家を活性化させようと、宿泊施設にリノベーションする取り組みを始めた。自分の生まれ育った場所のほど近くに「港と夕陽の見える宿」をつくったのが、2016年。以降、「プライベートビーチのある宿」「高倉のある宿」「水平線と朝陽の宿」「アダンと海みる宿」「ペットと過ごせる川辺の宿」「はたおり工房のある宿」と空港近くの奄美大島北部に7棟、隣の島の加計呂麻島に2棟、また徳之島に6棟と、次々と空き家を一棟貸しの宿泊施設に変えていった。民家だけではなく、カラオケボックスをドミトリーとコインランドリーに、集落の中心にあった廃業したスーパーマーケットを、ホテル、ステージ、レストラン、ショップ、ギャラリーと高齢者施設も併設した「まーぐん広場」に転換。ここではすでにデイサービスが行われていて、観光客だけでなく町民たちの集会場の役割を果たし始めている。

▲高級ヴィラ「伝泊 ザ ビーチフロント ミジョラ」。海を楽しむよう設計されている。Wi-Fi はつながるが、TVは置いてない。

また「奄美大島、徳之島、沖縄島北部および西表島」は世界自然遺産登録の候補となっており、今後国内外からの観光客の増加が見込まれる。そこで改修物件ではなく山下自身が設計した高級ヴィラである「伝泊 ザ ビーチフロント ミジョラ」もこの7月にオープンした。こちらは、ハイシーズンは1泊5万8,000円(2名)。同じ時期のドミトリータイプの部屋は1泊4,800円であり、形態だけでなく、サービスや機能もバラエティに富んだ宿泊施設群ができ上がりつつある。

変わったものと変わらないもの

高校生まで奄美で過ごした山下が、最近島に帰って感じるのは海の力が衰えた、ということだ。護岸工事や地球温暖化が原因なのだろうか、オニヒトデが増え、水温が上がり、サンゴ礁はかつての5分の1程度になってしまったという。そこで彼が考えたのは、「新しく開発するのでなく、なるべく元に戻しつつリノベーションしていこう」ということだった。「奄美がどこにでもあるリゾート地として開発されていくのではたまらない」という郷土愛もあったのだろう。また無理をしても続かない、今あるものをなるべくお金をかけず、しかし、快適に滞在できるものにしたいという建築家の目とそろばんから、この施設が生まれたと言えよう。実際ここにあるのは、歴史的建造物として価値のある建物ではなく、昨日まで人が住んでいたような民家である。

「海は変わりましたが、変わっていないものもあります。それが集落の仕組みです。奄美の人間の人情、気持ちのつながりは変わっていません。そこは残していきたい。しかし、変わらなければ廃れてしまう。私は島の人7割、そこに外部の人が3割ぐらい入ってくることによって奄美の良さを次の世代に伝えていけるのではないかと思っています」。

▲山下保博さんは、1960年鹿児島県奄美大島生まれ。86年芝浦工業大学大学院工学研究科、建設工学修士課程修了。91年自らの建築設計事務所を開設、95年に事務所を「アトリエ・天工人」に改称。2015年奄美設計集団設立。16年伝泊、まーぐん広場を運営する奄美イノベーション設立。元九州大学客員教授。

須野集落の八月踊り

伝泊のひとつの「高倉のある宿」が、須野という集落にあるという。高倉とは高床式の穀物倉のこと。須野の高倉は今では数少なくなった茅葺で200年ほど前のものだという。高倉の周りでは地元の人が八月踊りを披露してくれた。踊りが終われば伝泊の座敷でナンコという伝統的なゲームも行われる。

▲夜更けまで続くナンコゲーム。

「奄美は毎日が夏休みのようなものだから。仕事が終わればたいてい飲んだり踊ったりしているのよ」と踊っていた人は言う。昔はお祭りのとき、100軒以上ある集落のすべての家を回って踊っていたそうだ。「でもそれをやってると翌日、疲れて何もできなくなっちゃうからね。今はだいたい3カ所に集約して踊っている」。

須野の集落を歩くと、今でも機織りの音が聞こえる。規模は小さいが人の生活の息吹が感じられる。伝泊ができたことで高倉は残り、空き家には人が入る。踊りのご祝儀は集落に入り、踊りによって旅人と地元の交流が生まれるというわけだ。

高倉に、夕方6時過ぎにお酒や料理を持った人がまずやって来る。三線、太鼓が続き、夕暮れが始まる7時頃、踊りは始まる。

▲踊りのときに持ち寄られた郷土料理。踊りの途中でも、食べやすいよう小分けにしてある。お酒はビールと黒糖焼酎のロックだった。

男歌と女歌の大きな声での掛け合い、指笛。時間とともにどんどんエネルギーが増してくる。その熱情の輪にいると自然と体と目頭が熱くなってくる。その感動は、普段、忘れている生に対する実感と感謝の念なのではないかと思った。

▲「高倉のある宿」で、近隣の集落の人たちの八月踊りが始まった。泊まり客も一緒に踊り、遊ぶ。奄美の文化の一端を垣間見ることができる。

暮らすように泊まる場所

伝泊は使われ方もさまざまだ。普通の観光客のほか、サーファー、ダイバーが比較的長く逗留することもある。
ナンコをやっている途中で、他の伝泊に泊まっていた夫婦とその一人息子がやって来た。彼らは東京のインターナショナルスクールの長い夏休み期間中に子どもを奄美の公立小学校に通わせているという。

奄美市では、くろうさぎ留学という、群島外から奄美の公立小学校・中学校へ1年間留学生として受け入れる制度を実施している。関係人口を増やすのが目的だろうが、1年間だけでなく、くろうさぎ留学準備のための短期体験入学の受け入れも行っているらしい。「学校に通うために、普通のホテルに滞在するのではなく、暮らすように泊まれる場所を探していて伝泊を見つけたんです」と男の子の母親は話してくれた。

翌日、まーぐん広場で朝食をとっているとまたこの家族に遭った。「今日正午にこの子の通っている学校で、孵化させたウミガメの放流をするそうですよ」とまた母親が教えてくれる。
小学校は海のすぐ脇にあり、子どもと親、地元のメディアも駆けつけていた。面白いことにカメを大洋に還すときは島唄をうたって放流するそうだ。「いきゅんにゃ加那」というその島唄はもともとは恋歌だったらしく、これからあなたは旅立ってしまうけど、私のことを忘れないでね、というような意味の歌だという。

▲ウミガメを海に還す瞬間。小さなコガメは波にさらわれて戻ってきてしまうので、それをまた海に還す。

ここではインターネット以外の、人から人への生の情報が生きている。踊りにしろ、ナンコ遊びにしろ、気が乗ったら続けるし、乗らなければそれまでというものらしい。ウミガメの放流が見られたのも、満開のサガリバナの香りを嗅げたのもたまたまで、時期が違えば、何も起こらなかったかもしれない。がしかし、ここでは、奄美の人の暮らしというものが、リゾートホテルに泊まるよりも、ずっと身近になるのは確かだ。End
文/編集部・辻村亮子 写真:公文健太郎/Photo by Kentaro Kumon

▲「伝泊 アダンと海みる宿」。宿と海を結ぶテラス、周りをアダンやソテツの木々が囲む。

本記事はデザイン誌「AXIS」201号「ホテル、その新しい潮流」(2019年10月号)からの転載です。