今、手仕事の現場で起きていること
「なくなるもの 、続くもの」
(ラオスの布:谷 由起子さん編)

▲ラオスでの谷さん。この細い体で、誰も真似できない仕事を成し遂げた。

過日、吉祥寺のライフスタイルショップ「アウトバウンド」のオーナー小林和人さんが、20年近くラオスで布づくりをされてきた谷 由起子さんの「帰国報告会」を開いてくれた。“開いた”ではなく“開いてくれた”なんて、変な書き方と思われるかもしれない。しかし、チラシなどつくらなかったにも関わらず、定員80名の予定だった会はどんどん希望者が増え、結果130名ほどに定員を増やしたことからも、多くの谷さんの話が聞きたかった人たちは、“開いてくれた”と感じたに違いない。

▲当日、配られた冊子。写真は村林千賀子さん。製本は谷さんを日本で支えてこられた根本さん。

今年の年始に届いた谷さんからの挨拶状で、「ラオスでの仕事を終了した」ことを知った人たちは、その一方的な通達に動揺した。多くの人は、谷さんはいつまでも、あの「もう、谷さんしかつくれない、どこにもない布」を、つくり続けてくれると思っていたから、一体どういうことなのか、と気持ちの整理のつかない状態だった。

小林さんは、何度も谷さんの展示販売会を開き、4度ラオスに行き、谷さんのモノづくり現場をつぶさに見、記録していただけに、方々から谷さんのことを聞かれていたようだ。小林さんが「自分もしっかり話を聞きたいし、谷さんも多くの人にいちいち説明するのも大変だろうから」とひと肌脱いで、この会が開催された。

さて、この谷さんの布だが、ほぼ日のインタビュー「布の気持ち」でご存知の方も多いだろう。「布をつくる」と書いたが、布を実際につくっていたのはラオスの人たちだ。谷さんがラオスに入った20年近く前、ある村でつくられた布が素晴らしかったので、買い求めたいと伝えたが、「これは家族の服をつくる布だから」と断られたそうだ。家族のために自ら綿の種を蒔き、育て、紡ぎ、染め、織る。世界中の多くの人が服を買う時代、“家族のための布”に感激した。

その後、谷さんは村で布づくりをすることになる。それまで自給自足や物々交換で成り立っていた村が近代化に伴って金銭が必要になってきていたこともあり、村人も谷さんの希望に沿うような布づくりに協力してくれた。その布は、村の人たちのそれまでの技術を生かしつつ、谷さんの意識が隅々まで行き渡った、唯一無二の布となった。

▲村に伝わってきた技術は、谷さんがいなかったら、もう何年も前に誰もつくらなくなっていたかもしれない。素朴なはずなのに、気品が感じられる布。谷さんが「口やかましく」いろいろ注文をつけてでき上がる。

その布づくりを昨年、突然、谷さんは畳んだ。いちばんの理由は“外国人が現地で会社をつくり、続けていくにはそれなりの覚悟が必要。その分、辞めるにもものすごく体力が必要。辞める体力がある今が引き上げる最後のタイミング”ということだった。100人以上が関わった仕事を辞めるのは並大抵のことではなく、数年かけて徐々に計画し、最終的に、谷さんがつくった機も作業場も全部、ゼロにしてきたという。「できれば、村人の記憶すら消したいぐらい」という谷さんの言葉に、「もしかしたら、まだ、あの布はどうにかしてつくり続けられるのではないか」とわずかに期待を持っていた会場の人々も、完全に諦めがついたようだった。

▲「糸に力がある」、と谷さんは誇らしげに説明してくれる。自慢の木綿糸。もちろん、手紡ぎ。

おそらく、辞められる前、数年の布は、われわれ使い手にとっては十分の質だったが、谷さんにとっては「最初に私が惚れ込んだとは確実に違うもの」になっていたのだろう。 “家族のため”でなく“お金のため”の布づくりにしてしまった一因は私にもある。だから、その原因をつくった人間はすべてゼロにして去るべき、と言うのが谷さんの意思だろう。

テレビのドキュメンタリー番組ならば、谷さんがつくり上げた布づくりの仕組みで、谷さんがいなくなっても、村では今もあの布をつくり続けている――ということになるのだろうが、「自分で仕掛けたことは、自分でゼロにして去る」という谷さん自身が報告会で発した言葉と、「わがまま」を貫き通した人間臭さに、私は拍手を送りたい。

そして、「つくり続けてください」と言う私たちもわがままだと思うのだ。谷さんが現地で感じる葛藤も知らずに、「なくしてしまうのはもったいない」と言うのは、一方的にネットで拾ったひと言に対して攻撃する人間に近いかもしれない。

聞きたい話はいくらでもあったが、時間となり報告会は終了した。終わり際、谷さんが「織り上げた布を機から外す際に必ず出る糸の切れ端、縫製の際に出る端切れひとつすら残さず、持って帰ってきた」と笑顔で語られたことが印象に残っている。その笑顔には後悔は感じられず、むしろ、これから、持ち帰った布に囲まれて過ごす幸せすら感じられた。「これからどうするか解らない」と言いながらも、しっかり者の谷さんなので、持ち帰った糸で何かをしてくれるだろう、と期待を感じさせての閉会となった。

▲絹糸の撚り、細さ、試行錯誤の連続だったそう。谷さんの工房でつくられた絹は、ほかの糸とは全く異なる光を放つ。

最後に、小林さんが「谷さんの門出を祝うということで、お赤飯を用意しました」と、吉祥寺・ハモニカ横町のいせ桜のお赤飯を何十個と積み上げる姿に、思わず笑いが起きた。どこか湿っぽさの拭い去れなかった参加者が、お赤飯をいただきながら“谷さんが新しい道を歩むことを祝おう”、と吹っ切ることができたのはこの演出のおかげだ。小林さんの粋な計らいに、一同、“開いてくれてありがとう”と心から感謝した。

モノづくりの世界は、常に“なくなること”と背中合わせだ。よく、“辞めるのは簡単”と思われ、辞めると非難する風潮があるが、谷さんの今回の動きで、辞めることへの覚悟も知ったのだった。

前回のおまけ》

小澤金物店さんから「頼んでいたショーケースが入りました」と、写真が届きました。「杉は越前の杉の中でもとくに木味の良いものを柾挽きで使い、取手は銅製で素銅仕上げ」というこだわりの仕上げ。