震災の復興支援を目的とし、建築家の伊東豊雄氏らが提唱した「みんなの家」は、現在までに東北に16棟、熊本県内に100棟近くつくられた。特に東北では、東日本大震災発生から2019年で8年目を迎え、各家の今後の役割や機能を改めて考える時期にきているという。現地は今、どのような状況で、実際にそこを運営する人はどのように考えているのか。岩手県釜石市の「みんなの家 かだって」を運営する、NPO法人@リアスNPOサポートセンターの代表理事、鹿野順一氏に話を伺った。
製鉄と漁業の街、岩手県釜石市
「みんなの家」は、岩手県に4棟つくられた。そのうちのひとつ、釜石市にある「みんなの家 かだって」は、駅から徒歩15分ほどの街中の商店街通り、東部地区の只越(ただこえ)町にある。街並みはきれいに整備されたが、店舗は少なく閑散としている。
釜石市は戦後、製鉄と漁業の街として栄えたが、60年代頃から製鉄所の合理化や高炉の休止により経済が縮小し、東日本大震災時の人的被害も影響して人口は減少の一途をたどっている。鹿野氏はこの釜石市で生まれ育ち、東京の大学で広報やメディア関係について学び、卒業後、実家の和菓子店を継ぐために地元に戻った。平成2年、1990年だった。
鹿野氏は「みんなの家」ができる前から、街づくり活動をしていた。地元に戻ったときに活気が失われた街を憂い、「自分の店だけ頑張っても仕方がない、街全体を盛り上げていこう」と考え、同じ思いを持つ仲間と2004年にNPO法人@リアスNPOサポートセンターを立ち上げた。
地域の人々とのつながりを育みながら、商店街を中心に多彩なイベントやワークショップを催して街興し活動をするほか、近隣都市で市民活動をする人々の支援もしていた。その拠点として、交流施設「かだって」も開設した。
活動の拠点となる「場」を再びつくる
それから7年後、2011年3月11日に東日本大震災が発生した。釜石市も地震や津波によって甚大な被害を受け、鹿野氏は実家の和菓子店と家族と仲間を失った。「かだって」も倒壊した。だが、翌日から「もう一度、この街で何かやろうと決意した」という。「それは意地だったのか、悔しさだったのかわかりません。でも、会う人会う人にそう話していました」。4月3日から@リアスNPOサポートセンターの活動を開始し、被災地域への物資の配送などをしていた。
4月下旬、市長の声がけにより、街で商売を営む人々と今後のことを話し合う場が設けられ、鹿野氏らNPO法人は活動の拠点となる「場」がほしいと申し出た。プレハブの建物と仮設トイレ、発電機、工事現場で使うバルーン型投光器の設置を要望し、それは5月に完成した。
当初、通りはまだ瓦礫だらけで、電気も通っていなかったため、明かりがともる鹿野氏らのプレハブにトイレを借りたり立ち寄って話をしたり、次第に人が集まるようになった。
「今の商売をやめて、ほかの土地で仕事をしようと考えている人が何人もいました。そういう人たちがここに立ち寄って、『お前はこの街でもう一回商売をやると言っていたけれど、本気なのか?』と聞くので、『本気だ』と答えました。また次の日も来て同じ質問をされて答えて、というのを繰り返しているうちに、自分も地元に残って頑張ろうと考える人が増えていきました。この場がなかったら、そういう会話は生まれなかったと思います」。このとき、人の心を動かすほどの力を持つ「場」の重要性を、鹿野氏は改めて実感した。
建築家、伊東豊雄氏との出会い
瓦礫が撤去され、復旧作業が進んでいくなかで、鹿野氏らはプレハブではなく、街中にきちんとした活動の拠点を持ちたいと考えていた。そんなときに、「釜石市復興まちづくり基本計画」の会合で伊東豊雄氏と出会った。
当時を振り返って鹿野氏は言う。「あまり覚えていないんですが、最初にお会いしたときに僕が伊東さんに文句を言ったらしいんです(笑)。『俺らの街に土足で踏み込むな、この街のことは俺らがやるんだ』と。あとから伊東さんが被災地支援にあたって、『建築家のエゴがあってはいけない、そこに必要なものを提供する』と語っていたのをテレビか何かで観たり、街に何度も足を運ぶ姿を見たりして、ああ、この人は本気なんだなと思って、それからいろいろ話をさせていただくようになりました」。
その後も、宮城県仙台市につくられた「宮城野区のみんなの家」や釜石市の今後の構想など、伊東氏の思いや考えを聞くうちに、鹿野氏はNPO法人の活動の拠点として街中に「みんなの家」をつくってほしいと思うようになった。伊東氏は快諾したという。完成したのは、2012年6月22日だった。
現在まで、この家の用途や機能はさまざまに変化してきた。最初はバスを待つ人や地域の人々が過ごせる場として開放し、その後はイベントやワークショップを企画して開催したり、大学や企業から支援を受けて、移動図書館をはじめ、IT系企業による就労支援や人材育成の講座を開いたりもした。
市民活動に期待される街の復興
釜石市の街並みの復旧は、ほぼ終わりの時期を迎えようとしている。その「復旧」というハードの部分は行政が担ってきたが、ソフトである街の産業や人々の生活の「復興」については、実は市民活動に期待されているという。しかし、震災以降、岩手ではNPOや社団法人が100近くも生まれたが、その多くが助成や寄付などの資金が底をつき解散しているのが現状だ。
「われわれの活動は継続していくことが大事で、それには運営のための資金づくりを考えることが必要」と鹿野氏は気づく。また、伊東氏をはじめとした「みんなの家」に関わる建築家も、各地の「家」へ支援を続けていくための体制づくりの必要性を感じていた。そこでNPO法人HOME-FOR-ALLを設立し、2014年に釜石市で登記を行った。
鹿野氏は言う。「建築家たちが被災者と一緒に考え、つくり上げた『みんなの家』のコンセプトは、とても素晴らしいものだと思います。これからの『みんなの家』の主役は、利用したり運営する人。その活動をこれからもHOME-FOR-ALLが支えていければと願っています」。
最後に、釜石の街が今後どのようになってほしいかと尋ねると、鹿野氏はこう語った。「子育て中の母親や高齢者など、いろいろな人が集ったり相談できたりする場として、街中に『みんなの家』のような場所が10個くらいつくられるといいと思っているんです。そして、子どもからお年寄りまで、みんなが当たり前に、普通に暮らせる街になってほしい。でも、言葉にしたら簡単ですけれど、とても難しいことだと思いますね」。
国が定めた「集中復興期間」は平成27年度で終わり、「復興・創生期間」も平成32年度で終了するにあたり、今後の対応が検討されている。震災直後、建築やデザインの分野でも多くの人が支援活動を行ったが、復旧から復興へと、次の段階にきている被災地に対して、今、そして、これから建築家やデザイナーは何ができるだろうか。HOME-FOR-ALLのメンバーらも模索しているところだと言い、今後の展開が注目される。
鹿野順一(かの・じゅんいち)/NPO法人@リアスNPOサポートセンター代表理事、NPO法人いわて連携復興センター 理事、NPO法人HOME-FOR-ALL 理事。1965年岩手県生まれ。「被災者が主役の復興」を目指し、地域内外で復興支援活動を行う。また、自身の被災経験やその後の支援活動のなかで大規模災害発災直後の情報の連携や共有の重要性を認識し、今後の防災、減災に役立つ「情報連携・共有の地域プラットフォーム」の確立に取り組んでいる。2016年7月より、被災者であり、支援者でもある立場から熊本地震被災各地において「被災者が主体となった連携による復興」のための支援活動も行う。そのほか、「いわて連携復興センター」「新しい東北官民連携推推進協 議会 設立発起人」「岩手県東日本大震災津波復興委員会 委員」「岩手県社会貢献活動支援審議会 委員」「岩手県総合計画審議会 委員」「認定特定非 営利活動法人日本NPOセンター 評議員」を歴任。http://cadatte-kamaishi.com
みんなの家/2011年3月11日に発生した東日本大震災の被災地で家や仕事を失った人々が集い、語らい合えるささやかな憩いの場として建てられた小さな建物。伊東豊雄氏、妹島和世氏、山本理顕氏などが若い世代の建築家らに呼びかけ、被災各地に設計し多くの人々に利用されてきた。
特定非営利団体活動法人HOME-FOR-ALL/「みんなの家」をより多くの人々に理解してもらうため、またその運営や活動をさらに充実させていくことを目的に2014年に設立された。理事長は伊東豊雄氏、理事は鹿野順一氏のほか、建築家の山本理顕氏、妹島和世氏、アストリッド・クライン氏、マーク・ダイサム氏。http://www.home-for-all.org