YCAM「呼吸する地図たち」が示す、
アジアの近代化という枠組みを再考するプラットフォームとしての展覧会

▲ホワイエで行われたマレーシアの歴史学者ファリッシュ・ヌールによるレクチャー

マレーシアの演出家・リサーチャーのマーク・テを共同キュレーターとして迎えた展覧会「呼吸する地図たち」が、山口情報芸術センター[YCAM]で開催中だ(国際交流基金アジアセンターとの共同主催)。

本展では、東南アジアと日本のアーティストやリサーチャーが、各国の歴史、文化、政治、経済、具体的な日常生活といった幅広い社会事象を独自の視点でリサーチすることで、近代化の過程で国民国家の形成を促す視覚的メディアとしての役割を果たしてきた「地図」について再考し、地図と地図の変化の間に存在する共同体や個々人の物語を描き出すことが試みられている。明治維新150年、そして国家イベントとしてのオリンピック開催を控えた今、国家や近代の枠組みを「地図」を通して問い直す意欲的な展覧会への想いをYCAM担当キュレーターの井高久美子に聞いた。

現実と並行して存在する展覧会

「(マーク・テの)代表作「Baling」を見たときに、演劇というよりもドキュメント(記録)であり、現実とパフォーマンスが地続きになっているかのような力強さを感じました。演劇というフィールドで活動していても、社会へコミットしていく高いモチベーションと切実さには圧倒されるものがありました」。

演劇という領域に活動の軸足を置きつつ、劇場の枠組みを超えた自由な表現活動で国際的に活躍し、「京都国際舞台芸術祭(KEX)」や「国際舞台芸術ミーティング in 横浜(TPAM)」などの国内の主要な演劇祭にも招聘され注目を集めてきたマーク・テ。彼を共同キュレーターに迎えた理由を井高はこのように語る。

▲共同キュレーターのマーク・テ(中央)とYCAM担当キュレーターの井高久美子(右)
Photos by Yasuhiro Tani ©️山口情報芸術センター[YCAM](すべて)

「特にマークの個々人の物語を集積させる方法に、大きな可能性があるように感じ、通常の展示では静的になりがちで、どうしてもこぼれ落ちてしまう小さな物語を、展覧会というフォーマットを通してどのように見せることができるのか、お互いのフィールドから発想を持ち寄ってつくってみたら面白いんじゃないかと考えました」。

その成果は、プラザとして位置付けられたホワイエでの毎週末に行われるレクチャー、レクチャー・パフォーマンス、パフォーマンス、ワークショップとして現れている。プラザでのイベントは、展覧会のキーワードと結びつけられ、ホワイエに設置されたテントの中にアーカイブされる。そうして展覧会は会期中にも「息をする」ように変化するが、それは閉鎖された非日常的な場で作品を視るという近代的な展覧会の枠組みを問い直すものとして理解できるのではないか。

「(展覧会は)現実と切り離された場所ではなく、現実と並行して存在するものだと考えています。展覧会で紹介されるレクチャーやレクチャー・パフォーマンスは、非日常的なことですが、そのようなことに触れては、日常に戻って、またこの場所(会場)に戻ってくることもできる、そういう可能性を持ったものと考えています」。

▲毎週末のイベントがアーカイブされていくホワイエに常設されたテント

「共同体の記憶」をあぶり出す

元号の改元、東京オリンピックと大阪万博の開催、そして緊張感が高まる東アジア情勢を背景に、私たちは日本という枠組みを日々、強く意識せざるを得ない状況に置かれている。明治維新150年という節目を私たちはどう迎えるべきだったのだろうか。展覧会の準備にあたり、マーク・テと一緒に日本国内の12の都市を巡るなかで井高が感じたのは、近代化を「共同体の記憶」という視点から捉える必要性だった。

「山口は長州藩のお膝元で総理大臣も数多輩出している土地柄ということもあり、明治維新に対して概ね肯定的です。薩摩に行けば、西郷隆盛の最後に維新の影のようなものが照射されている。東北では、戊辰戦争から150年という節目として受け止められているなど、同じように近代を迎えていても、『維新』という言葉にはどこか冷めた眼差しを感じました。近代によって『日本像』はおしなべて均されてしまったように思っていたけれど、共同体の記憶には、均すことのできない個々の物語が確かに存在することを実感したのです。レクチャーやパフォーマンスは、単なる近現代史をなぞらえるだけではなく、歴史の痕跡がどのように現代の私たちに接続されているのかを語る役割を担っています」。

例えば、インドネシアのアーティスト、イルワン・アーメット&ティタ・サリナによるレクチャー・パフォーマンス「ネーム・ロンダリング」では、マラッカ海峡におけるインドネシアとシンガポールとの関係を改めて再考し、「礼儀をわきまえた転覆」行為として、国の許可なしにシンガポールの国境を通過するための8つの計画が芸術表現として示された。

また、劇作家・西尾佳織によるレクチャー・パフォーマンス「なぜ私はここにいて、彼女たちはあそこにいるのか〜からゆきさんをめぐる旅〜」では、東南アジアにある日本人墓地に眠る人々のリサーチをきっかけに始まった、19世紀後半に島原・天草などから東南アジアへ渡り、娼婦として働いた日本人女性「からゆきさん」の足跡をたどる旅が、主体や主語を変えながら語られることで、現在と連続する性に対する潜在意識があぶり出されていく。

▲西尾佳織のレクチャー・パフォーマンスの様子

こうしたホワイエでのイベントとそのアーカイブに加え、複数のインスタレーション作品がYCAM内に展示されている。デジタルメディアを用いた装置によって表現の主体性を問う作品を制作する美術家、やんツーは、山口市内を移動し記録したGPSデータによってフォントを生成、高度を含めた地形データを持つ書体として可視化した作品を展示している。山口市内の移動経路は、製品として均質化されたアルファベットをベースにあらかじめデザインされているが、自然地形や都市基盤、移動する人間の身体など、さまざまな条件が動的にぶつかり合い、いびつに歪んでいる様を鑑賞することができる。

また、せんだいメディアテークに東日本大震災後に開設され、復旧・復興のプロセスを記録・発信してきた「3がつ11にちをわすれないためにセンター」の記録を活用した展覧会「記録と想起・イメージの家を歩く」から3つの映像作品が紹介されており、センセーショナルに報じられる行政による震災復興事業の背後で日々営まれている、無数の小さな復興の物語に触れることができる。

▲「記録と想起・イメージの家を歩く」の展示風景

ミッシングリングとしての東南アジア

本展には、マーク・テをはじめ東南アジアのアーティストたちにフォーカスを当てるという意図が感じられる。近代/日本という枠組みを再考するうえで、井高が彼/彼女らに感じていた魅力や期待とはどのようなものだったのか。

「アジアのアーティストとひとくくりにするのはとても難しいですが、東南アジアのアーティストは、積極的に社会(政治や経済)へコミットしていく姿勢がとても強い傾向にある思います。なぜかと考えると、現代芸術の社会的成熟と、経済や政治的社会の混乱と成熟が、ほぼ同時並行に進んできたからではないでしょうか。日本は、法律や工業や経済といった西洋モデルの近代社会のシステムのなかで、並列的に『芸術』というものを発達させてきました。ですが、戦後、東南アジアは反植民地主義(対西洋)のムードのなかで、社会基盤の根っことなるべき、自分たちの文化の原点を真剣に問う必要があったからではないかと思います」。

▲マレーシアのアーティスト、チ・トゥーによる第二次世界大戦で犠牲になった人の数だけ芝を刈るパフォーマンス「カット・グラス・ピース(草を刈る作品)」

この「芸術」とは何か、「歴史」とは何か、「国」とは何か、という問題に真っ向から対峙するタフさこそ、現在の日本において、アートだけでなく、あらゆる表現活動において留意されるべきではないだろうか。加えて、東南アジア諸国でのリサーチは、これまでとは異なる角度から日本を発見する機会にもなるのかもしれない。

「近代は西洋との対峙で語られがちでしたが、西洋とアジアの間にあるミッシングリンクが東南アジアではないか。日本像を捉え直すうえで、このミッシングリンクにアプローチしてみようと思いました」。

▲シンガポールのアーティスト、ホー・ルイアンによる、アジアの奇跡、経済危機とそこからの復興についてタイ、マレーシア、韓国、日本を通して語るパフォーマンスの様子

会期後半には高山 明によるワークショップ、志賀理江子+清水チナツ+長崎由幹によるレクチャー、本展覧会のキーパーソンである国際交流基金の古市保子によるレクチャー・パフォーマンス(マーク・テ演出)などが予定されている。

会期終了に近づけば近づくほど、アーカイブが充実し、プロジェクト全体をより俯瞰して捉えることができるようになっていくことだろう。さらに、展覧会終了後も同じ主題で各地を回りながら、レクチャーやレクチャー・パフォーマンスを蓄積していくプラットフォームとして機能させていくことが模索されている。それによって、展覧会そのものが「呼吸する地図」のひとつとなっていくことを期待したい。End

マーク・テ+YCAM 呼吸する地図たち

会期
2018年12月15日(土)〜2019年3月3日(日)火曜休
会場
山口情報芸術センター[YCAM]*入場無料
詳細
http://www.ycam.jp/events/2018/the-breathing-of-maps/