REPORT | フード・食
2018.12.21 12:28
メルボルンに、メディアでオーストラリアで一番とも、時に“世界一”とも称されるクロワッサンの専門店がある。フィッツロイに本店を構える「LUNE(ルーン)」がその店で、今年の10月には、メルボルンシティの中心部に2号店を出店したばかりだ。創業者で、ディレクターのKate Reidさんに話を聞いた。
F1のエンジニアから、クロワッサンづくりへ
かつて、女性初のF1のテクニカルディレクターを夢見て、エアロダイナミクスエンジニアとしてF1チームでの仕事に就いていたKateさん。
クロワッサン店を始めるまでの経緯を尋ねると「レーシングカーが好きだった父の影響で、私は幼い頃からモータースポーツに興味がありました。大学時代には流体力学を学び、卒業と同時に、幼い頃からの憧れだった英国のF1チームの一員となることができました」。
何をするにも険しいほうの道を選び、その頂点に挑みたくなってしまう困った性格だと笑う彼女にとって、F1の世界を目指すことは自然な成り行きだったという。しかし、エンジニアとしての仕事は、時に1日じゅう人と会話せずに作業に没頭する日々で、思い描いていた夢とのギャップに苦労することになる。英国で5年ほど過ごした後、体調を崩した不運も重なり、退職してオーストラリアに帰る決断をした。
英国勤務時には出張でたびたびフランスを訪れ、街角のベーカリーで過ごす朝のひと時が至福だったというKateは、オーストラリアに帰国後、パンへのちょっとした興味から、メルボルンのベーカリーで職を見つける。そこからのスピード感が彼女らしいが、ベーカリーでの仕事に夢中になり、パンづくりを学ぶためにすぐにパリへ渡り、本場で生地の製法を学ぶ。そこで、繊細なクロワッサンづくりには温度や時間の管理が必要で、実験を繰り返したエンジニア時代の考え方が役立つことに気づいた。また、パリでの修行後に、メルボルンにはおいしいコーヒーは数多くあるが、本当においしいクロワッサンがないことから、自らクロワッサンをつくることに思い至ったという。
早朝4時から行列ができる人気店
パリで学んだことをベースに試行錯誤を重ね、自分だけのクロワッサンづくりを完成させたKateは、2012年にメルボルン郊外のエルウッドに小さなクロワッサン専門店「LUNE」を開業。小売りではなく、カフェにクロワッサンを卸す商売がメインで、店名はクロワッサンの形の三日月型に由来する。
精魂込めて焼いた彼女のクロワッサンは即座に人気となり、LUNEの快進撃が始まる。1年後には、当時別の場所でカフェを営んでしていた弟のキャメロンが加わり、10坪もない店舗ながら店内の一角でコーヒーを提供し、クロワッサンの直売を開始。
すると噂が噂を呼び、行列のできる有名店になり、8時開店の店に早朝4時から人が並ぶほどの事態に。行列に並ぶことが一般的でないこのメルボルンでの“4時間待ち”に当時の過熱ぶりがうかがえる。増え続ける顧客に対応するため、クロワッサンの卸し先として付き合いのあった敏腕飲食店オーナーのNathan Tolemanに移転先を相談し、空き家だった約400㎡の倉庫と出会う。文化的な感度の高いフィッツロイに位置するこの空間との出会いが、LUNEを次のステージへと引き上げることになった。
新店の開業に向けて、Kate、Cameronの兄弟は、Nathanを3人目のディレクターとして迎え、同時にメルボルンを拠点とするクリエイティブエージェンシーのA Friend of Mineに依頼してブランディングを一新。フィッツロイ店は満を持して2015年にオープンした。そのおいしさでカルト的な人気だったLUNEは、メルボルンで一度は訪れたい、洗練された店舗としての名声を確立するに至った。
生地づくりを見せるオープンキッチン
フィッツロイ店を訪れてまず驚かされるのが、広々とした空間の使い方と、店舗中央にある近未来的なガラスキューブ型のオープンキッチンだ。
その設計について尋ねると「基本的なデザインは私とCameron、Nathanの3人で考えました。ガラスキューブのアイデアは、Cameronと私が見た、古びた倉庫の中にガラス製のモダンな金庫室がある映画のシーンからインスピレーションを得たものです。もし、ベーカリーに見えないような倉庫の中央にピカピカのガラス張りのキッチンがあったらどんなに素敵だろうって盛り上がったの」。
また、多くのベーカリーではオーブンや仕上げのプロセスを店頭で見せるが、オーブンは奥に隠し、生地づくりの工程を見せることにした点にもLUNEのアイデンティティが表れている。
「私たちのこだわりであるクロワッサンの生地づくりを見せるために、完璧に温度管理できるガラス張りのキッチンを設けました。アイコニックな天井の放射線状の照明は、実は持ち帰り用紙箱のベンチレーションの形状をもとにしています。生地づくりをあえて見せたのは、プレーンクロワッサンで5.9豪ドル(約470円)、季節のメニューで11ドル(約900円)と、決して安価ではない私たちのクロワッサンを納得して買ってもらうために、多くの職人の手で丁寧につくっていることを知っていただきたいという意図もありました」。
真剣に生地をカットし、クロワッサンを整形していく職人たちの手さばきは美しく、写真を撮る顧客らがその姿に見入っているのはいつものことだ。
スタッフがつくり上げたフィロソフィー
この10月には、シティ中心部へ2号店の出店を果たした。「エルウッドでコーヒーを提供し始めたときと同じように、シティで忙しく働く多くの人に、焼きたてのクロワッサンとコーヒーで最高のひと時を提供したい、という思いから1年半前に計画を始めました。私たちは過剰なデザインは好きではないので、機能的でかつ本店の気配を感じられるような居心地のよい店になっています。クロワッサンを見せるアートギャラリーのような感じがするかもしれませんね」。
本店で下準備をしたクロワッサンをシティ店に運び、店内のリターダー(低温で生地を保存する装置)で適切に休ませた後に店頭で焼き上げることで、本店の生産能力を最大限に生かしながら、シティで焼きたてのクロワッサンを提供できるようにしたという。
完璧な層を見せる香ばしいクロワッサンが日本でも食べられたら、と東京やニューヨークなど海外出店の可能性をと聞くと、「フランチャイズのオファーが世界中から届きますが、品質を考えるとフランチャイズ展開は不可能です。ただ、将来の成長を考えると、私たち自身でコントロールできるかたちでの海外展開は夢のひとつです。ニューヨーク、ロンドン、東京にひとつずつ出店できたら素晴らしいよね、とCameronと話すことはあります。これまで私たちは自分たちができることだけをやってきました。一時的な利益は追わず、サービス、商品、店舗での体験を含めてすべてのものを最高の状態で提供する、というディレクター陣3人の思いは同じで、そこはブレない自信があるので、これからも一歩一歩、健全でサスティナブルな運営をしていきたいと思っています」。
最後に改めて、LUNEが大切にするフィロソフィーを尋ねると、「プライド、前向きであること、他人への敬意、成長」という4つを挙げてくれた。これらのキーワードは、長く勤めるスタッフが、LUNEのこんなところがたまらなく好きだというポイントを書き出した言葉そのものだという。今では、その言葉がいわば社訓のように、新たに加わるスタッフに受け継がれているそうだ。
経営者が掲げた美しい文言ではなく、スタッフが自ら感じ取り仲間に伝えたいフィロソフィーがあることにLUNEというチームの強さを感じる。その中心には、皆がポジティブに、そしてハッピーに働ける場所でありたいと願うKateの人柄と、創業時から変わらない彼女のクロワッサンへの情熱がある。