「70年大阪万博ブラジル館」展がサンパウロの建築専門大学で開催中
ジョゼ・パウロ・ゴウヴェア(キュレーター)、インタビュー

▲展示物の配置される前の1970年大阪万博のブラジル館。

2025年度万博の開催地が大阪に決定して未だ日が浅いが、現在ブラジル・サンパウロでは、1970年度大阪万博のブラジル館についての展覧会が開催されている。設計したのは今年90歳を迎えたパウロ・メンデス・ダ・ホッシャ。06年にプリツカー賞を、16年にヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展金獅子賞と高松宮殿下記念世界文化賞を受賞したブラジル建築の巨匠だ。

メンデス・ダ・ホッシャ自らは実物を見ることが叶わなかったブラジル館は、当時のブラジルの政治的状況と日本とブラジルの絆を物語る逸話のある建築作品だった。

「例外の建築-70年大阪万博ブラジル館」と題された同展はサンパウロの建築専門大学エスコーラ・ダ・シダージに新設された展示室のこけら落としとして2019年1月25日まで開催中だ。

▲「例外の建築-70年大阪万博ブラジル館」展。建築専門の展示室としてはサンパウロで唯一だ。

▲展示のオープニングを訪れたパウロ・メンデス・ダ・ホッシャ。 Photo by Clarissa Mohany / Baú – Escola da Cidade

軍政下で慌ただしく進んだブラジル館計画

1964年の東京五輪に続き、1970年に開催された大阪万博は、日本の戦後復興と高度経済成長を声高に世界に示すものだった。一方、当時のブラジルは、1964年に始まった軍事政権下の、社会が厳しく統制される時代にあった。1968年には軍による取締りを激化させる軍政令第5条(AI-5)が発令され、報道や表現への検閲強化や、人身保護令の一時停止などが行われた。これにより反政府派活動家のなかには亡命を余儀なくされたものもいた。

こうした政治的背景のもと、1969年に万博ブラジル館のコンペから建設までが慌ただしく行われた。時系列で紹介すると、3月15日にコンペ発表、4月17日に当時40歳で、サンパウロ大学建築学部で教えるメンデス・ダ・ホッシャの当選が公表された。応募数83件からの選出だった。

▲メンデス・ダ・ホッシャによる、ブラジル館コンペで提出された図案。

しかし、その1週間後には、メンデス・ダ・ホッシャ含むサンパウロ大学の左派系教授66人がAI-5により教職停止を命じられる。5月21日に彼は40日間の滞在許可を得て東京に到着し、建設会社藤田組(現フジタ)の大阪支所で、日本人エンジニアとともにブラジル館の建設に取り掛かる。7月1日の定礎式をもって建設は始まり、同月4日にメンデス・ダ・ホッシャはブラジルに帰国したのだった。

▲メンデス・ダ・ホッシャによるブラジル館素描。

プレストレスト・コンクリートで造られた建築面積1,447㎡のブラジル館は、多くのパビリオンが出入り口を構えるなか、どこからでも入れる、まるで天井付きの広場のようであった。丘を模した3つのなだらかな凸状の構造と一本の十字状の柱の上に、巨大なコンクリートの板を水平に乗せたような建築はシンプルかつ、斬新であった。天井には格子状に小窓が規則正しく並び、陽光が会場を照らした。特徴的なその天井は、サンパウロ大学建築学部校舎のものを模したものだ。

▲大阪万博ブラジル館のMDF製1/50スケールの模型。 屋根には40㎡のガラスの天窓が規則正しく張り詰められた。

「ブラジル館で表現したかったのは、何よりもアメリカの自然を建設物が占めるという意識でした」とメンデス・ダ・ホッシャは過去のインタビューで答えている。大阪の会場に人工的に盛られた3つの丘を、南北アメリカ大陸の雄大な自然に見立て、そこに直線的なモダニズム的創造を配置したブラジル館は、自然と人為の融合という構想があったのだ。

神話化されたブラジル館

本展のキュレーターのジョゼ・パウロ・ゴウヴェアは、エスコーラ・ダ・シダージで教え、サンパウロ大学で大阪万博ブラジル館について研究しつつ、自らの建築事務所を営む建築家だ。偶然にも取材の前日に、2020年度ドバイ万博ブラジル館の設計をゴウヴェアらが担うことが発表されたばかりだった。

▲「リサーチのために再び日本を訪れたい」と話すキュレーターのジョゼ・パウロ・ゴウヴェア。

「大阪万博ブラジル館は、神話化された建築物です。なぜなら、メンデス・ダ・ホッシャの作品でありながら、実際にそれを見たブラジル人も、残された写真資料もわずかだからです」とゴウヴェア。「ブラジル政府が危険分子に指定し、教職を奪った建築家が、ブラジルを世界に示すために万博のパビリオンを設計するとは、まったく矛盾していました。パビリオンの天井をサンパウロ大学建築学部のものとそっくりに設計したのには、単なるオマージュではなく、政治的主張が込められていたのです。側壁のない開放的な設計も、閉塞感のある軍事政権を暗に批判したものです」と指摘する。

キュレーターが嘆くとおり写真資料が少ないため、本展は、主にブラジル館の建築模型、素描や平面図の拡大コピーなどで構成された。「建築模型は、2016年に東京のGAギャラリーで行われた『パウロ・メンデス・ダ・ホッシャ』展で展示されたものを元にしています。同展のために模型を製作した元SANAA所属で、友人の野口直人氏からもらったデータで、まったく同じものをサンパウロでつくりました」。

▲地下の展示場に直接通じるトンネルが設けられていた。

日系人土木技師の活躍

「大阪万博ブラジル館含むメンデス・ダ・ホッシャの初期の作品においては、日系2世の土木技師、ミツタニ・シゲが不可欠でした」。そうゴウヴェアは語る。1950年生まれのミツタニは、日系人エンジニアの先駆けのひとりで、サンパウロで最初のエスカレーター敷設に携わった経歴もある。

ゴウヴェアによると、ブラジル館の天井の梁の構造は、それまで日本では馴染みのないもので、藤田組から設計のし直しを求められたという。頭を悩ましたメンデス・ダ・ホッシャは、国際電話でミツタニに相談すると、ミツタニは数日後に、事前の連絡無しに藤田組に現れ、メンデス・ダ・ホッシャを大いに驚かせたそうだ。

ミツタニの登場によりブラジル館は設計の変更を免れて施工されたのだった。この逸話は、当時のブラジル建築の先進性を示すとともに、メンデス・ダ・ホッシャにとっては、ブラジルで建築を学んだ日系人が、日本でブラジル人建築家を助けた感動的な思い出として記憶されているそうだ。

▲ブラジル館天井の内部構造を描いた展覧会フライヤー。

ブラジル館は着工よりおよそ8ヵ月を経た1970年2月末に完成し、3月14日の大阪万博の開会式で、他のパビリオンとともに招待客へのお披露目を迎えたのだった。

まだ見ぬイメージを求めて

その長い功績と受賞歴からも明らかなように、メンデス・ダ・ホッシャはサンパウロの建築専門大学内展示室の新設を祝すのに最も相応しい建築家だ。キュレーションに白羽の矢が立ったのは、同校で教鞭をとりながら、メンデス・ダ・ホッシャの知られざる作品について研究するゴウヴェアだった。

▲今は亡き美術史家フラヴィオ・モッタ考案の70年大阪万博ブラジル館展示内容の素描。結局は不採用となったのだが、ゴウヴェアは検閲をその理由と疑い、リサーチを進めている。

ゴウヴェアは展覧会のための資料を集めたほか、かつて藤田組のエンジニアが作成したブラジル館の、古く傷んだ施工図をもとに、展示用に拡大して描き直しも行った。「日本の施工図は、最低限の描線のみで構成されており美しい」というのが彼の感想だ。

▲藤田組エンジニアのものを元に、ゴウヴェアが描き直したブラジル館施工図。

ゴウヴェアの70年大阪万博ブラジル館に関する研究はこれからも続く。将来的には研究結果を書籍化するつもりだそうだ。

「とにかくブラジル館の写真を集めたい。建築を主体として撮られた写真がないのです。もし日本でブラジル館の写真や資料をお持ちの方がいれば、ぜひ連絡をいただきたい」とAXIS読者にも呼び掛けている。(Photos by Tatewaki Nio)End

▲万博終了後、大阪音楽大学が活動の場とする予定があったが、他のパビリオン同様に11月末に解体された。

「例外の建築-70年大阪万博ブラジル館」展

会期
2018年10月27日~2019年1月25日
会場
エスコーラ・ダ・シダージ(Rua General Jardim, 65 – Vila Buarque, São Paulo-SP, 01223-011, Brazil)
開館時間
月~金:10時~20時、土:10時~16時(日曜定休)