人々の本能的な欲求が映し出される場
台湾「中壢(ちゅうれき)観光夜市」の魅力

▲台北から鉄道で1時間強の場所にある桃園の中壢観光夜市。昼はただの大通りだが、夕方5時頃になるとどこからともなく屋台が集まり、深夜1時頃まで多くの人で賑わう。ここを訪れるのは地元民がほとんどで、開店当初は学校帰りの学生が多く、人出のピークは夜8~9時頃。

B級グルメや新鮮なフルーツが並び、若者や観光客らで賑わう台湾・桃園の中壢(ちゅうれき)観光夜市。まぶしく光る露店の明かりに照らされた街は、生き生きとした躍動感に溢れている。夜な夜な多くの人々を惹きつける同夜市を訪れ、その魅力を探った。

「夜市、それは本能である」。

台湾北部の小都市・新竹に生まれ育った都市ウォッチャー兼ビジュアルデザイナーの呉東龍はこう語る。デザインを愛するあまり頻繁に日本を訪れ、都市に対する独自の審美眼を磨いてきた。大都市から小さな町まで、台湾で夜市にお目にかかれないところはほぼない。さながら台湾のアイコンだ。だが夜市は意図的に計画されて生まれるものではない。

夜市は暮らしのなかから自然に発生する。少なくとも台湾の夜市はそうだ。また、台湾の夜市はみな、廟や学校の近くか、昼間開いている青果市場の延長にある。つまり市井の人々が最も多く集まり、人々の本能的な欲求が映し出される場なのだ。

▲食べたいものがあればすぐに座って食べる。隣で同じメニューをかき込む人とは、一期一会の縁。

台北と東京を行き来する呉は、自分のような都会人は昔から普通の店舗で買物するのに慣れていると言う。じっくり選び、大人しく列に並んで支払いを済ませる。すべては秩序立って静かに行儀よく事が運ぶ。しかし屋台の前に立つと、都会人は別のルールに直面する。よそ者でなくても、地元民でさえしばらく夜市に足を踏み入れていないと、特有の習慣に一瞬立ち往生してしまうだろう。夜市とは混沌としたカオスのようでいて、一定のルールを有する場所でもある。声を張り、手を上げ、時には人をかき分け前に出て店主に存在をアピールしなければならない。まずはそのときだけでも、身に染みついた都会のルールを忘れることだ。

かしこまった姿で夜市に来る者などいない。動きやすい軽装にツッカケ、これこそ夜市のスタンダードファッションである。都会にはデザインされた素敵な店舗が並ぶが、夜市という世界に足を踏み入れたなら、俗物的で効率的な振る舞いに徹底することだ。やり取りは素早くざっくばらんで、互いの防衛ラインを瞬時に探りながら値切り、あるいは押したり引いたりの駆け引きが続く。

▲野菜中心のメニューは外食が多い人にもヘルシーと人気。

夜市はまた、流行に乗れるかどうかの戦場でもある。ブームが去ればあっさり見捨てられる。客に買わせるために食材、食べ方、パッケージなどに工夫を凝らす大小の屋台は常に臨戦態勢で、機を見るに敏とばかり新たな食べ物が目まぐるしく登場する。

念入りな市場調査やマーケティングなど必要ない。人の声や流れを見極め、感じるのだ。身体、それが夜市に連なる屋台の本能的なアンテナである。つまり、屋台に必要なのは大声と、目立ちさえすれば細部にはこだわらない原色のネオン。有名人と親しげに映った写真を飾ってもいい。風雨や油汚れにさらされ色褪せた写真や、大げさな宣伝文句、俗っぽい派手な飾り、とにかく人の目を引き、その足を一瞬でも止めさせれば夜市では勝者となる。

▲昔懐かしのパチンコ台を前に、店主からカゴいっぱいの玉を受け取り、老若男女が仲良く並んで興じる。

たまに、煌々とした灯りに包まれた路地に吸い込まれるのは、食欲をそそる香りに引かれたからではなく、肩の力がすっと抜けるような、もうひとつの秩序に身を置く刺激を求めてなのかもしれない。

混乱のなかに未知をはらみ、未知のなかに期待が膨らむ。本能を呼び覚ますそんな夜市の声に、私たちは常に抗えないのだ(文/詹慕如 写真/Chia-Jung WU)。End

青森・八戸 「館鼻(たてはな)岸壁市場」の朝市の記事はこちら

デザイン誌「AXIS」 196号 特集「夜と朝」より転載。