だから言葉は難しい?
うつわや作家の仕事に見た、問屋の気づき(言葉編)

▲少しだけおかわりをお願いするとき、どうしたら適量を伝えられるのだろうか。

仕事の上で、言葉が面白い、と思うことが多くある。

物を売る、ということは営業活動であり、言葉の使い方によって、売れ方はガラッと変わる。うつわや道具の世界で「一器多用」という言葉があるのだが、ひとつのうつわで、いろいろな用途に使えることを意味する。さも、良いことのように感じられるが、「いかようにも使えるけれど、面白みがない」と感じてしまうこともある。うつわにこだわりのある日本人とは面倒くさい生きものだ(と言いつつ、「こだわりがある、繊細な感覚を持つ民族」という意味がベースにあるからこその面倒くささなのが面白い)。

▲取っ手付きカップとヘラを使い、20年ほど前に大ヒットした納豆鉢を再現。ちなみに、ヘラは、リビング・モティーフで販売している、アイスクリームスプーン。「納豆ヘラ」と、名前を変えたら、ヒットするかも?

その反対のことばとして「専用の」というものがある。一時、食器業界を一世風靡した「納豆鉢」が最たる例だが、「専用」はひとつの用途しか使えない「不器用モノ」ではなく、ひとつの用途に特化した「優れたモノ」なのだ。私は地場産業のアドバイザーなどもするのだが、その時に「一器多用」が果たしていいことなのか、実は「これだけしか用途がない」ほうが、人の心を揺さぶるかもしれない、と諭すこともある。

作家との付き合いのなかで言葉のちからに気づくことも多々ある。リビング・モティーフになくてはならないアイテムの竹の籠をつくっている久保一幸さんとは20年近い付き合いだが、久保さんの工房を訪れ、制作風景を見せてもらったとき、久保さんは自嘲気味に「僕は、神経質すぎるんですよ」と、ぽろっと漏らしたことがあった。久保さん自身は本当のことを言ったまでだが、聞いていた私は「神経質」を無意識に「丁寧なものづくり」として、変換して聞いていた。

▲芸術的な美しさは、久保さんの性格から生まれていると言ってもよい。

「神経質」という言葉は、普通は、皮肉とか、卑下、と捉えられるだろうが、久保さんの不器用な性格から滲む誠実さも手伝って、「神経質」はいい言葉として記憶されたのだった。

一方、ガラス作家の安土草多くんのひとことも面白い。自分が百貨店などのグループ展に立つとき、お客様に「僕がつくっているんです」と、声をかける。「僕が作者です」ではなく「僕がつくっている」というのがミソなのだ。「つくっている人が、わざわざ説明してくれている」という感動が一気に、お客様を包んでいるのがわかる。ちょっとした伝え方の違いが大きいのだ。

最後に、うつわの仕事に欠かせない、ごはんに関する結論の出ない課題の提示で締めくくりたい。大の米好きを自称している私が、おかわりを頼むとき、「一杯はいらない、ひとくちでいい」と言うときがある(この“一杯”も、たくさんという意味と、一杯、二杯、という数量と、ふたつの意味があるわけだが)。「少しおかわり」と頼むと、大抵は、小盛りの量を渡される。そこで「ひとくちぐらい」と言うようにしてみた。しかし、これでも大抵は茶わんの半量はよそわれてくる。ひとくちではない。あきらかに3口はある。せっかくの厚意を無にしたくないので、大抵は無理をして食べるが、その度に、「どうしたら、適量を伝えられるのだろう」と、悩む。

▲「ほんのひとくち」といって、本当に一口だと、案外、がっかりするかもしれない。

飛行機でもそうだ。機内サービスのコーヒーやお茶を頼むとき、「半分で良い」と伝えても、大抵、7分目ぐらいまで入っている。試しに「1/3くらい」と、伝えたら、半分だった。気持ちとして「少ないよりは多い方が良い」という心理はわかるが、「こっちの気持ち」はどうやったら、完璧に伝わるのか。もし、虹色のカップだったら、「緑色のところまで」とか、指定できるのに……、なんて考えた。このやりとりってもしかして「コミュニケーションデザイン」なのかもしれない。でも、この「あいまいなやりとり」が日本人らしいのかな、などと、飛行機で渡されたカップに半分入ったコーヒーを飲みながら考えたのだった。

○問屋の気づき(梱包編)はこちらからどうぞ。
 
前回のおまけ》

▲ラオスでのお土産は、ラオス語の算数ノートと、複写のメモ帳。両方とも、ちょっと気に入っている。