前回、梱包をするうえで、ちょっとした気づきが気持ちを豊かにする、ということを書いた。引き続き、地味な梱包話で恐縮だが、続けさせていただく。
ダンボールを無駄にするのが嫌な人間は、新しいダンボールを使うことに罪悪感すら感じるものだ。秋田の曲げわっぱの柴田慶信商店さんは、リサイクルのダンボールだが、必ず「裏返した」状態で送られてくる。側面の1カ所のみ糊づけを剥がして裏返し、無地が外に出るようにつくり直しているのだ。言葉で書くと大したことに感じないかもしれないが、受け取った際に「気遣い」を感じるひと作業だ。
気遣い、といえば、緩衝材の気遣い。まずはこちらを見ていただきたい。
わかりますか?
山形の地場のものをプロデュースする、デザインユニット「山の形」さんから送られてくる荷物は、わざわざ「英字新聞」を使っているのだ。開けた瞬間、同じような紙質に同じような大きさの文字の新聞紙が、くしゃくしゃに入っているのだが、それでも、瞬時に開けた人間は「あ、英字」(=かっこいい)と、判断している。送り主の気遣いにも驚くが、こんな風にぐちゃぐちゃとなっていても、瞬間的に英字新聞だと解る人間の判断力、オソルベシ、である。それをわかって、英字新聞にしているところに「デザイナー」なりの意思を感じる。
さて、お次。日本語の新聞だけ。
日本語の新聞でも、きっちり詰めてあると気持ちよいものです。こちらは、2017年リビング・モティーフでの「日本の道具3」に出品いただいた、大沼道行さんの梱包。
こちらは、新聞+紐かけ+ダンボールの三段構え。
すり鉢「JUJU」の山只華陶苑さん。さすがプロの包み方。この場合「揺れないように、縛る」ことが、ミソ。フワフワの状態だと輸送中に重いすり鉢が揺れて、自分の荷重で割れるのを避けるためだ。
さらに、しゃもじの宮島工芸製作所さんからの梱包。
几帳面に並んでいるのを見ると、いつも、嬉しくなる。
異なるアプローチだったのは、郡司製陶所さんからの細かい箸置き。
一個一個、包まれると、包むほうも、開けるこちらも手間……、ということで、大胆にもこの状態で、ダンボール板に挟まれてくる。それにも関わらず、しっかりと動く余地がなければ、割れないものだ。
そして最後に……。
デザインのWebマガジンでこの画像をお見せするのは気がひけたが、百聞は一見に如かず。お許し願いたい。(この会社名は伏せさせていただく)
ゴミだと思わず思ってしまうこの写真。
実は、実際に納品された梱包を開けたときのものだ。梱包素材を混ぜると、クッション力が増すのだろうか?謎なのだが、毎回、こういう混ざり具合で到着する。
新聞だけ、ミラーマットだけ、白い薄葉紙だけなら、きれいに見えるのに、「混ざる」ことで負の力が働いてしまった、悲しい事例だ。「混ざる」=気を遣われていないと感じるのも、負の要素に加わっている気がする。たまに学生や地場産業の人を相手に話をすることがあるのだが、この写真は説得力があり、反面教師の教材としてつかい続けている。
余談ではあるが以前、デザイナーの友人がプロデュースしたうつわの展示会の準備を手伝いに行ったら、友人は段ボールを開けながら、ひどくうろたえ、叫んでいた。何かと思ったら「梱包に、スポーツ新聞をつかうなんて信じられない!」とのこと。どの社かにもよるだろうが、女性の裸が記事になっている可能性のあるスポーツ紙は、いつ、そのショッキングな紙面が出てくるとも限らず、ドキドキするからつかうべきではない、というのが彼の持論だったのだ。多分、女性の私の前で、「その写真」が出てきたときの気まずさの、先手を打っただけなのかもしれない。この話も面白いので、講義では、場を和ませるのにつかわせてもらっている。
さて。ダンボールの内側の梱包が終わると、普通はガムテープを貼って、封をして終わる。このガムテープの幅が安心感につながる話は前回、お伝え済みだが、「ガムテープは信用できない」と、ガムテープを使用しない窯元があるのだ。
大分県日田市小鹿田焼の坂本工窯。ここの梱包は、ダンボールを二重にして、底は井桁に組み、「バンド」で留める、というもの。
ちなみに、一般的なバンドがこちら。
こういう梱包の話はものを扱う人間が集まると、けっこう盛り上がる。
年末、友人に誘われて競馬に行った。門外漢なので、名前の雰囲気で選ぶしかない。馬の名前を見てみると、そこに「パッキン」という馬がいた。同じく、ものを扱う友人と「パッキンという名前に賭けないわけにはいかない」と、100円賭けたあと、名前を見直したら「パツキン」だった。無意識に、親和性のある梱包材=パッキン、と読み違えていたことに、二人で大笑いしたが、なんと、見事2着に入った。「読み違いには福がある」……かも?
《おまけ》
捨てられないシリーズ。シャネルの新聞広告。ウォーホルです。