「モノが生きている」
越境する芸術と音楽。SIAF2017レポート(3/4)

○SIAF2017のイントロダクション・梅田哲也氏についての記事はこちら
○堀尾寛太氏・毛利悠子氏についてはこちら

第1回と第2回のレポートでは芸術祭の概要を紹介するとともに梅田哲也氏、堀尾寛太氏、毛利悠子氏の展示または公演を振り返ってきた。この3人からの多大なる影響を公言しているアーティストのひとりが、実は札幌国際芸術祭2017のゲストディレクターを務める大友良英氏である。

変化と進化を繰り返す「without records」

▲大友良英+青山泰知+伊藤隆之「(with)without records」

大友氏が最初に手がけたインスタレーション「without records」は2005年に京都のギャラリーShin-biで展示された。使い古されたポータブル・レコード・プレーヤーを16台集め、レコードを使用することなくプレーヤー自体が発する即物的な響きに焦点を当てた作品だ。

ちょうど同時期に大友氏は大阪の築港赤レンガ倉庫で行なわれていたグループ展に赴き、梅田氏、堀尾氏、毛利氏という3人の若い才能と出会うことになる。その衝撃を受けて以降「without records」も変化を遂げていき、2007年のせんだいメディアテークでは視覚的な演出と構成を青山泰知氏が担当するとともにプレーヤーが66台に、翌2008年に山口情報芸術センターで行なわれた「ENSEMBLES」展ではシステム制御の担当者として伊藤隆之氏も関わるとともにプレーヤーは127台に倍増した。

中古のポータブル・レコード・プレーヤーにはどこか欠けていたり変な癖がついていたりと、それぞれの個性豊かな記憶と歴史が物理的に刻み込まれている。一台であれば「正しくない」動きをしているだけに見えるかもしれないが、さまざまな記憶と歴史を宿したプレーヤーが無数に集まり共につくり上げていくアンサンブルは、「正しさ」の境界線を無化するかのごとく壮観だ。

今回も大友氏、青山氏、伊藤氏でタッグを組み、さらに札幌市民との共同作業によって改造が施された約100台のプレーヤーが、モエレ沼公園ガラスのピラミッド内部に設置されている。それぞれのプレーヤーに特有の響きとリズムがそこかしこで不確定的に動き出すのが面白い。ガラス張りのピラミッド壁面から差し込む光に照らされたプレーヤーは、まるで植物が太陽を浴びて呼吸しているかのようだ。

▲大友良英+青山泰知+伊藤隆之「(with)without records」、松井紫朗「climbing time / falling time」

幾何学的な「(with)without records」の造形美と対照的なのが、同じ会場にある巨大なウミウシのような作品「climbing time / falling time」だ。松井紫朗氏が生み出したこのバルーン状の物体が醸し出すテーマパーク的な雰囲気に触発されたのか、ポータブル・レコード・プレーヤーのオーケストラに包まれながら、多くの子供達が会場を駆けずり回っていたのが印象的だった。

廃物が作品として再生される=リサイクル

▲クリスチャン・マークレー 「Record Without a Cover」 写真:小牧寿里

大友氏が展示作品を手がけるに当たって影響を受けたと公言しているもうひとりのアーティストが美術家/ターンテーブル奏者のクリスチャン・マークレー氏である。札幌芸術の森美術館ではマークレー氏の大規模なアーカイブ展が開催されている。

音楽の伝達手段ではなくモノとしてのレコードそれ自体の響きを明らかにする「Record Without a Cover」は、そのタイトルからも大友氏の「without records」に影響を与えたことが伺えるコンセプチュアルなアルバムだ。パソコンや携帯電話などの画面に、そのメディアが廃物として解体されリサイクルされゆく姿を自己言及的に映し出す作品などは、開催地のひとつであるモエレ沼公園の成立経緯を思い起こさせる。

▲クリスチャン・マークレー 「Bottle Caps」(左)「Straws」(右) 写真:小牧寿里

同じように廃物を作品へと転身させたものとして、とりわけ目を引くのが2016年作のアニメーションだ。道端に捨てられたタバコの吸殻やガム、ストローなどの写真を撮り続け、それを連続させた映像が巨大なスクリーンに投影されているのだが、ゴミでしかなかったガラクタがあたかも生き物のように動いていて、愛らしくも大量消費社会に対する皮肉の込められた痛烈な作品だ。

聴くことが風景をつくることと同義になるとき

▲鈴木昭男「き い て る」

美術館の入口脇はガラス張りの廊下になっていて、外には砂利が敷き詰められた中庭が見える。そこにサウンド・アーティストの鈴木昭男氏による作品「き い て る」が展示されている。地面には切り株のようなものが置かれていて、耳と足のかたちを組み合わせた鈴木氏オリジナルのマークが描かれている。周囲の音に耳を澄ませるためのエコーポイントだ。

▲鈴木昭男氏オリジナルのマークが描かれたエコーポイント

しばらくすると親子連れがやってきて、嬉しさのあまり子供がはしゃいでマークの上に登ってポーズを決めだした。入れ違いに私も外に出てそこに立って耳を澄ませてみる。鳥や虫の声、風のそよぎ、室外機の騒音などが聴こえてくる。

すると今度は新しく廊下にやってきた別の観客が私のことを眺めている。見ることと見られることが反転し、聴くことが風景をつくることと同義になる。

自然のサウンドが人間に聴かれるためにアンサンブルを奏でているわけではないように、見られることを目的とするわけではない聴くという行為が、観客との関係性において一度きりしか生まれることのない情景をかたちづくっていく。慣れ親しんできたはずの「聴くこと」や「見ること」が、ここでは双方向的かつ複数の意味が交差した行為として、普段とは少しばかり異なる顔を覗かせているのだ。

暗闇に浮かび上がるモノとしての「私」

▲∈Y∋「ドッカイドー/・海・」入り口の看板

美術館から少し離れたところにある工芸館には、ロック・バンドのボアダムスの中心人物としても知られる∈Y∋氏(かつては山塚アイと名乗っていた)の作品「ドッカイドー/・海・」が展示されている。

会場の入り口では受付のスタッフが「とても暗いため心配な方はあらかじめ目を慣れさせてからご入場ください」とサングラスを配っていたが、暗闇に好奇心が湧いた私はそのまま入ることにした。たしかに会場内はほとんど何も見えず足元も覚束ない。∈Y∋氏が手がけた瞑想的な音楽だけが遠くから聴こえてくる。奥に進もうとすると床に柔らかい起伏があり平衡感覚を失いそうにもなる。

だが少し経つと蛍のような仄かな明かりが見えてきた。天の川のように会場全体に光があるようだ。さらにしばらくするとその明かりがどんどん見えるようになってきて、曼荼羅か何かの宗教絵画にも思えてくる。本当にそうだろうかと考えあぐねているうちに、さらに視界が開けてきた。宇宙に煌めく星のように光が綾なす景色は美しい。

しかしそれ以上に面白いのは自分自身の視界がどこまでも明瞭になっていくプロセスだった。目と耳の役割の違いを実感すると共に、外界を知覚する生命体としての私自身の計り知れなさが、私が世界に接しているというよりも、世界に私がモノと等しく投げ入れられているという感覚にさせたのである。

閉幕を迎え、改めて問う。「芸術祭ってなんだ?」

▲JRタワーコンコースに展開された大風呂敷プロジェクト

10月1日に閉幕した札幌国際芸術祭2017には100名を越すアーティストが参加した。今回紹介してきたのはたったの10名で、全体からしたらごく一部に過ぎない。しかし連載第1回でも述べたように、本芸術祭の核心はその捉えきれなさにこそあるように思う。

「芸術祭ってなんだ?」という問いかけに対して十人十色の答えを提出したのはアーティストたちだけではない。私たち観客もまた別々の答えを心に抱きながら芸術祭を後にしたはずだ。

私にとっての「答え」は何よりもまず、人間中心主義的な視点からは捉えられないようなモノの世界の計り知れなさとの出会いであり、私たち人間も同様に未知のモノとして存在しているということに対する気づきであった。そして点在する会場を訪れるために歩き、自転車を借り、地下鉄や路面電車やバスに乗ることで、ビジネス街や歓楽街から河川や山岳までがグラデーションを描くように共存する、札幌という他にはない場所をより深く知ることにもなった。

おそらく本芸術祭の体験はこの街の日常的な風景を知ることと切り離すことのできない経験となっている。だとしたら私は「芸術」を見て回っているつもりでいて、本当は、生きている都市の息づかいそのものを感じていただけだったのだとも言えるだろう。