家電メーカーに勤めた経験はないが、フリーランスで工業製品を数多く手がけている、デザイン界では稀有な存在だ。「最近、ものづくりの手法が変わってきているのを感じる」と言う酒井俊彦氏に、現在とこれからのデザインに対する考えを伺った。
生きた情報を得られるデバイス
最近、手がけたプロダクトデザインは、「synapseWear」。気温、湿度、CO2、照度、気圧、騒音、磁場、加速度といった環境情報のデータを記録するウェアラブルデバイスだ。
「普段何気なく過ごしている日常で、自分が今いる場所がどういう状況なのかを知りたいと思う人がいるかもしれないし、そういう環境情報を意識して生活することは大事ではないかということを提案する製品です」と酒井氏は言う。
例えば、ジョギングをしているときに、気温や湿度はもとより、走っている場所の磁場や気圧の変化なども知ることができる。また、長時間ミーティングをしている会議室で、CO2が少ないということがわかれば、窓やドアを開けて換気をすることができるだろう。
その個人データは、企業にとってはリサーチやマーケティング、製品開発などに役立つ情報となる。市場に出ている電子端末の多くは、それらのデータを企業やメーカーが個人の意図とは別に吸い取ってしまうが、「synapseWear」はハードもソフトもオープンなのが他とは違うところだ。ウェブから自由にダウンロードすることができ、購入者はウェブ上で自らのデータがどこでどのような用途に使われているのかを知ることができる。
プロダクトデザイナーの力を発揮できる領域
このような個人周辺の情報を収集するデバイスを開発する動きは、国内外で増えているという。「これらのデバイスに対してプロダクトデザイナーが関われるのは、機械的な形状をしている間だけだと思います」と酒井氏。
その先にはデバイスの形がさらに小さくなることは必至で、例えば、服の繊維の中に織り込まれたり、人の皮膚の中に埋め込まれたりすることになるかもしれない。その場合は、プロダクトデザイナーの仕事ではなくなり、他の分野のクリエイターが取り組む領域になっていくだろう。
今後はプロダクトのハードの無料化が進み、中身のデータの質や価値がさらに高まっていくことが予測される。ウェアラブルプロダクトのものづくりのあり方もさらに変わっていくだろう。
チームを組んでプロジェクトを推進する
酒井氏の仕事のスタイルは、クライアントと一対一よりも、複数名のクリエイターを取りまとめてデザインの方向性を示していくディレクションの仕事や、ワークショップ形式でプロジェクトメンバーと進めていくことが多い。
企業やプロジェクトの内容が変わっても、いつも問題になることは同じだと気づき、その改善のためにこうした手法を取り入れることが増えたという。
プロジェクトでいつも問題になること
地場産業のプロジェクトで問題になることは、活性化のための製品開発にデザイナーやデザインディレクターが参入した場合、一般の人々との間に価値観のズレがあって、それを前者の人間が気づいていない場合が多々あることだ。
デザイナーやディレクターの主張が強く「とんがり」過ぎたものになり、デザイン界では注目されても、一般の人には受け入れてもらえないケースも多い。また、とにかく売れたいという思いを持つクライアントと、売れることよりもコンセプトやストーリーを重視しがちなデザイナーやディレクターとの考え方が大きく乖離してしまうことも。
多くの人が手に取るデザインを目指して
地場産業のプロジェクトでは、いつも自身がファシリテーターとなって、途中段階で何度も最初のコンセプトをみなで確認し共有しながら、ゴールまでメンバーを導いていくことを使命としている。
2005年の立ち上げからデザインディレクターとして携わっている「おいしいキッチンプロジェクト」は、コンセプトの立案からデザイナーやアイテムの決定、最終商品までの全体のデザインアイデンティティのコントロールを行っている。これは福井県の地場産業の技術を駆使して、多彩なデザイナーが現代のキッチン用品を生み出すというもの。一般の人にも幅広くヒットしている。
2005年の「DESIGNTIDE TOKYO」で初めて発表された製品を見たときに、とても新鮮な印象を受けた。洗練されていて機能的でありながら、決して「とんがり」過ぎず、親しみやすさと愛らしさを兼ね備えた、新しいデザインの形が提案されていた。このシリーズは今後、各メーカーから販売される予定だ。
実体験から生み出される本当の回答
酒井氏の仕事の進め方でもうひとつ面白い点は、メーカーとのプロジェクトの際、部署を横断してメンバーを集めてワークショップ形式をとることだ。そこでは実際にその製品が普段使われている背景や空間を体感し、その体験をもとにデザインを考えることもある。
この形式をとるようになったのも、マーケティングやリサーチデータの手法や取り扱い方に疑問を持ったことがきっかけだった。生活者が求めていることとデータとの間にズレが生じることがあり、定量データと定性データを混在して議論してしまうことにも問題を感じていた。
以前、行った積水ハウスの住宅のプロジェクトでは、「快適なバスルーム」を考える際に、最初にリサーチデータをもとに議論を行い導き出したのは、ミストなどの最新機能がいろいろ取り付けられた空間だった。けれども、ワークショップで実際にそういうバスルールームを体験したメンバーは、ほぼ全員が「快適」というものの本質を捉え違えていたことに気づかされたのだ。
ものに興味を持たない若い世代
多彩なデザインアプローチを用いて、現代の暮らしに寄り添う製品の開発に取り組んでいる酒井氏だが、いちばん難しいと感じるのは、どこでも言われている若い世代の物欲のなさだという。彼らは食や服、家具などを安価でファストな製品を選ぶ傾向にある。
「みな、そこそこ見た目がきれいなものに囲まれて生活している。けれども、どれも『そこそこ』。味覚の違いはもちろんのこと、家具の木目シートと本物の木、あるいは銀メッキとステンレスのカトラリーを見極められる人がまだいるのでしょうか。五感がどんどん衰えてきているように感じます。そうならないためには、いいものに囲まれて暮らすことです。ここで言う『いいもの』とは、高価なもの。それを買って使うことで初めて、なぜそれが高価なのか、なぜいいものと言われているのかが理解できると思います。つくり手が良い材料を使って丹精を込めてつくっているからですね。そういう手間を買っているわけです。いい服を身に着ければ、そうではないものとの比較もできて、ものを選ぶ目も養われる。けれども、このままいいものを知らずに生活する人が増えていけば、ものづくりをする人の数は減少するでしょうし、文化は衰退し、国力は確実に低下していくと思います」。
心を揺さぶる魅力的なもの
もしかすると、このままいけば文化のない国になってしまうのも、あながち遠い未来ではないような気もする。ところで、今の若い世代は、本当にものが欲しいと思う気持ちがまったくないのだろうか?
彼らの心に揺さぶりをかけ、どうしても欲しいと思わせるもの。もしかしたら、今、そういう魅力的なものがないのではないか。デザインの力で彼らを先導して文化を生み出すことができないのであろうか?
そう訊ねると、酒井氏はこう語った。「確かに、こんな世の中だから仕方がない、と諦めていたところもあるかもしれません。心を揺さぶるプロダクト、考えてみます。宿題にさせてください」。それが完成したときに、改めてまたお話をお聞きしたいと思う。
synapseWear http://artandprogram.com/works/?project=synapsewear
加藤農園 https://www.kougentomato.com
おいしいキッチン http://www.o-kitchen.com
四万十ノ http://shimantono.jp
酒井俊彦/プロダクトデザイナー。1964年高知県生まれ。1983年〜1987年東京造形大学デザイン学部卒業。1988年〜1990年コーゾーデザインスタジオ入社。1992年にサカイデザインアソシエイツ設立し、現在に至る。東京造形大学非常講師。柔軟な思考と姿勢でものの本質をつかみ、工業製品から家具、インテリアまで幅広い商品をデザイン。Gマークをはじめとする受賞も数多い。さまざまなデザインプロジェクトのディレクション、コンサルティングを手がけている。http://sakaidesign.com