INTERVIEW | サウンド
2017.09.07 22:12
環ROYの活動範囲は広い。音楽アルバムの制作はもちろんのこと、美術館でのパフォーマンスやインスタレーションの制作、江崎グリコや日清、GAPといった数々の広告音楽のほか、映画音楽も手がけ、Eテレ「デザインあ」にも参加する。異分野のクリエイターとの協働にも積極的で、そのフィールドは今や先端科学にまで及んでいる。
あらゆる分野の境界が融けていく時代に、余白や辺縁の可能性を大切にする環が求められるのは自然なことなのかもしれない。6月に5作目の音楽アルバム「なぎ」を発表した彼に話を聞いた。
環ROY(たまき・ろい)/1981年宮城県生まれ、東京都在住。主に音楽作品の制作を行う。これまでに「なぎ」を含む5枚のCDアルバムを発表、国内外のさまざまな音楽祭に出演。パフォーマンス作品やインスタレーション作品、映画音楽なども手がける。コラボレーション制作も多数。http://www.tamakiroy.com
ラッパー・環ROY「余白や辺縁の可能性を大切にする」
音楽は時間に対する取り組み
ーー現在、地球や生命の起源に迫る東京工業大学地球生命研究所(ELSI)とのプロジェクト※に参加しています。どんなきっかけだったのでしょう?
ELSIの石村源生さんと、ソーシャルプロジェクトプロデューサーの林口砂里さんが声をかけてくれました。最初に「うまくいったらそれでいいし、何もなければそれでもいい」と言われ、素晴らしいなと思いました。明快な結果が強く求められる時代に、余白の多い、とても豊かな取り組みだと思い、参加させていただくことになりました。
※惑星形成や宇宙生物学などの先端分野で活躍する研究者と、建築やデザイン、パフォーミングアーツといった分野のクリエイター9名が協働で作品をつくるプロジェクト。2017年3月にスタートし、作品発表は2018年の予定。その模様の一部はウェブにて。
ーーこのプロジェクトでは、太陽系以外の惑星、いわゆる系外惑星の形成や進化の解明に挑んでいる井田 茂副所長の研究に関心を持っているように見えました。
井田先生が研究している惑星形成論はひじょうに抽象度が高いと感じました。スケールがとても大きいため、作業仮説と呼ばれる領域では、ところどころに物語が使われているように感じたんです。なので、そういった領域において共通点を見出せるかもしれないと考えています。また井田先生の著書「系外惑星と太陽系」のなかに書かれている「地球中心主義を脱却せよ」というメッセージは一神教的世界観に対するカウンターとも言えますし、日本人らしい視座だと強く感じています。
ーーELSIでどんな作品をつくるか、現時点で構想はありますか。
建築家の浜田晶則さんを交えて、井田先生と、3名による創作になっていけばいいと思いつつ、接点を見出そうしているところです。音楽は時間に対する取り組みです。そしてその取り組んでいる時間が次々に空間へ溶けていく、音楽の抽象度を上げるとそういう感じだと思います。井田先生の研究は、宇宙という空間があって、惑星の形成が膨大な時間のなかで行われる。浜田さんの分野である建築も、まずは空間です。そういう意味では時間と空間であることは共通しているので、コミュニケーションを深めていけたらいいなと思っています。
よくわからないことを大切にしたい
ーー金沢21世紀美術館でのパフォーマンスをはじめ、アートやデザイン、ダンスなどとのコラボレーションをいつ頃からするようになったのですか。
蓮沼執太くんという音楽家のプロジェクトに参加して以降、そういった機会が増えたように思います。2013年に国立国際美術館でフルクサスの回顧展が開催されました(「塩見允枝子とフルクサス」展)。その関連イベントとして、蓮沼くんが組織した約15名のバンドで演奏会をしたんです。それまでは美術に興味を持ったことがなかったですし、自分には関係のないものだと思っていました。でもせっかくだから「フルクサスってなんだろう」と書籍などで調べたんです。結果、そのときはよくわからなかったんですけど(笑)、でも、そのよくわからないってことがすごく面白く感じたんですね。わからないものを前にしたときに、調べたり、解釈しようと試みたり、向き合って取り組むことが楽しいと感じるようになりました。「わからない、だからつまらない」じゃなくて、「わからない、だから面白い」ってなるほうが、気持ちがいいと思うようになったんです。わかんない……、なんでそうなるんだろう?って考えて、調べて、歴史とか文脈とか理由を、少しずつ引き寄せて、わかろうとすることが楽しいんです。
ーーわからないことを追求するという意味では科学も同じですね。
現代における芸術って、科学と宗教の狭間でなんらかのバランスを調整するような役割なのかなと最近は考えています。創作とか芸術に携わっている人って悪く言えば無責任、良く言えば科学と宗教どちらの思いも取り入れることができる存在だと思うんです。例えば、「ドラゴンクエスト」というゲームに「遊び人」という職業があります。遊び人の経験値が上がっていくと、あるときいきなり「賢者」に変身するんですよね。芸術家ってそういう存在なんじゃないかなーって思います。
日本という環境に合った響きを持つ「ラップ」を表現したい
ーー最新の音楽アルバム「なぎ」には、古事記や和歌をモチーフとした表現が織り込まれていたり、ところどころに古語も使われています。また時間の流れを持つ物語的な歌詞が印象に残りました。アメリカで定義された「ラップ」とは違うものに挑戦したいという思いがあったのでしょうか?
日本って、例えばですけど、中国から漢字を輸入してカタカナとひらがなをつくる、みたいに、なにかを取り入れて長い時間をかけて改変して、オリジナルなものを生み出すということをしてきたと思うんです。仏教とかもそうですよね。オリジンからはかなり違った発展を遂げています。そういう意味で、英語のRAPを輸入したので、未来には「らっぷ」や「ラップ」みたいな、なにか別のオリジナルなラップが生まれていくと思うんです。今は、その途中にいると思っていて、未来に対して、自分なりにそういった仕事ができたらいいなと思っています。
ーーメッセージ性や主張の強いラップとは異なり全体的に聴きやすくて、聞こえてくる日本語がとても心地よく感じました。
文化って、その地域の環境からつくられる人間の行動様式のことだと思うんです。人は昔から環境に適応するために物語を生成し、物語によってその環境を受け入れたり解釈してきたと思います。例えば、チベットにある鳥葬という風習。高山地帯なので木材資源は貴重だし、そもそも酸素が薄いから火葬には向かない。地面も硬く、掘って埋めるのは難しい。そうなると、鳥に食べてもらうのが、いちばん合理的なんです。そこに「鳥たちが死者を天に運ぶ」という物語を付与することで、人々が救済されたり社会が治癒されたりする。
文化って、時間をかけて、その土地や風土に合ったかたちに落ち着いたもののことだと思うんですね。そういう意味で、ここは日本という場所なので、この環境に最適化された形式に、アメリカからきたラップをつくり変えていけたらいいなと思っています。とても時間がかかることなので、かなり先の話だとは思いますが、なにか、日本らしいもの、日本の風土にあった響きを持つラップって生まれると思うんです。そういう仕事に関わっていきたいと思っています。
ーーSNSなどに言葉が溢れて、たやすく消費されていく時代に、環さんはあえて制約を設けることで、言葉の本質を見極めて、選び、削ぎ落としています。それは「デザイン」だと思うのですが、ご自身では言葉についてどのように考えていますか。
確かに「デザイン」をしていると言えるかもしれません。作詞という行為は言葉の構造群をつくるみたいなところがあると思います。歌詞をつくるときにはまず、時間がAからBへと線的に移動するか、あるいは移動しないまま同じ場所に居続けるかを決めます。前者だと物語的になりますし、後者だと観念的な歌詞になっていくと思います。
時間経過のある物語の場合、西洋音楽から生まれた定型にならって流れをつくっていけますよね。例えば、イントロが経過した後の16小節を4分割して起承転結にしたとします。すると起承転結それぞれが4小節になります。さらに「起」を構成する4小節も起承転結にする。また、この場合「承」の終わりが8小節目となって、16小節のちょうど真ん中にくることになるので、流れから少し逸脱するような言葉をわざと置いてみたりする、そして転に向かう。とか、いろいろな方法が考えられます。
例えば「なぎ」のトラック2「Offer」の場合、8〜12小節目を「転」と位置付けて「歩道橋、信号、魔法、車道」とベタな韻を連続で置いています。「転」ブロックに、複数の韻を意識的に置くことで、音の面でのアクセントをデザインしたと言えるかもしれません。ほかにもトラック6「都会の一枚の本」の前半部分は、1小節の文字数がすべて「3・3・5・4」になっています。短歌や俳句の持つ「定型」という考え方にならって、決まった文字数でリズムをつくり出そうとしています。すべて僕の主観的なルールですが、なるべく構造を持つ言葉の群になるように努めています。
ーーなんだか建築みたいですね。
西洋音楽には基準周波数というものがあって、ひとつひとつの音程の差が均一に決まっています。ハーモニーもそれに準じて生まれていくので、音楽ってとても数学的というか、科学的なものなのだと思います。過去にはヤニス・クセナキスという人が建築と音楽の辺縁を探っていました。
ラップに関しては、ハーモニーやメロディの要素は弱く、リズムが主体ですよね。そのぶん音楽としての構造は、ある種単純とも言えますが、言葉がとても重要になると思うんです。強い言葉というか、言葉同士の結びつきが強い必要があるように感じています。そう考えると、ラップって音楽でもあるけれど文学でもあるような、どちらの要素もある表現なのかなと思ったりします。
いろいろな人たちと「仲良し」になり、自分を知る
ーー9月にはダンサーの島地保武さんとのパフォーマンス「ありか」のツアーが始まります。普段、協働はどのように始まりますか。
対話しています。ダンスとラップは表現様式が違うので、コミュニケーションし続けています。お互いがお互いの辺縁をプレゼンして、重なる部分を探すんですよね。そうすると少しずつ見つかってきます。けど、島地さんは同じ日本人ですし、同じ時間に生きているから、そんなに離れてはいないと思うんです。例えば、イスラム教圏の人とか、僕らからするともっと離れている人っていっぱいいるじゃないですか。僕と島地さんの差異なんてたいしたものではないですよね。でもダンスとラップという差があります。そういう身近な差異のなかで、他者とのコミュニケーションを練習して、もっと差のある離れた人とも伝達や対話ができるようになったらいいなと考えています。
ーーそれはELSIの井田教授や、さまざまな分野の人たちとのコラボレーションでも一緒なのかもしれませんね。
そうですね。似ている部分を探し合っているんでしょうね。たとえその「似ている」という感覚が、勘違いや錯覚であったとしても。似ている、心が通じ合っている、と思うことで対話が続くと思うんです。対話が続くと関係が続きます、そして社会が続くと思います。そうやっていろいろな人たちと「仲良しになる」。そうやって自分を知っていく。そして自分の領域に戻って自分のことをする。それの繰り返しだと思います。