「profit | 街をお金にするしくみ」
ーーデザインのあしもとより

街の中には、実にモッタイナイ空間が存在する。例えば、高架下の空間はその代表例だ。また、気付きにくいかもしれないが、道路のちょっとした余地を植栽で埋めてしまっている例も少なくない。壁面に目を向ければ、高架橋の橋脚や河川のパラペット(コンクリートの壁)も結構広い壁面を持っているし、歩道の路面だって捉えようによっては使えるかもしれない。そして、市街地ではあまり見かけない水門のゲートも大きな壁面を持っている。特に壁面は、そのスペースを埋めたくなるのか、地元の子供に絵を描かせてしまうことも多い。子供の絵ならばまだ地域とのつながりが感じられるものの、なかにはヘタウマとも言えない意味不明な絵を描いてしまうこともあるから、「モッタイナイなぁ」と思ってしまうのだ。

モッタイナイ代表例の高架下空間。

公共施設や公共空間は、日常生活では当たり前に存在するものであるが、それがどんな形でどんな状況であっても、感心を持つ人は少ないだろう。しかし、意識的に街を眺めてみれば、巨大な面が無造作に現れる土木構造物や、何にも使われていないスペースなど、もう少し有効に使えないかと疑問に思う施設や空間が多く存在することに気付く。第6回「デザインのあしもと」は、こうした公共施設・空間の有効活用を考えることを目的に「PROFIT~街をお金にするしくみ」をテーマとして5月30日に開催した。

水門のゲートは巨大なキャンバスとなりがち。

初めに、こうした街中のモッタイナイ環境について、府中市議会議員の西村 陸氏に現状を紹介して頂いた。西村氏によれば、街を“お金”にする仕組みは、街が“豊か”になる仕組みの1つであって、現在、無意味な空間や安全上問題がある施設跡地、残念な表示類のデザインなど、課題は街のいたるところに数多くあるという。

長期間放置されている都市計画道路用地(写真/西村 陸)

例えば、基地跡地や都市計画道路用地が整備されるまで長期間放置されていたり、老朽化した歩道橋や管理が曖昧な地下道等は、設備に対する住民の不安を助長させる。こうした状況は、自治体の財政事情やデザイン的な発想の転換に乏しいことに加え、人々の街づくりに対する関心の低さも原因の1つと言える。これを解決する究極の方法は「祭」だと西村氏はいう。人が集まり、賑わいをもたらし、協働によって地域に誇りを持てるようにすることが、街を“豊か”に変えるいちばんのきっかけとなるのだ。

老朽化が進む歩道橋(写真/西村陸)

現状ではさまざまな種類の問題があることを把握したうえで、対象を巨大な壁面に絞り、屋外広告やその他の情報コミュニケーションの場としてのデジタルサイネージの可能性について富士通株式会社に話を聞いた。デジタルサイネージは、最近では駅構内などで多く見かけるようになったが、デジタルのメリットは、データの差し替えが容易であること、動画が可能であること、双方向の情報コミュニケーションが可能であることにある。しかし現状では、設備費などの面で課題が多く、思うように普及しておらず、また利用者の情報取得という点では、スマホやタブレットが普及するなかでそれらとの差異化が今後の課題となっているという。

曲面に使用できるデジタルサイネージ ※販売終了(富士通株式会社)

そして、アプリ開発などを中心にUX(User experience)に関するデザインコンサルティングを展開する株式会社ツェッペリンからは、街なかの情報過多な状況に対する問題提起があった。現状の情報伝達は視覚的な方法が主であるため、直接的な表現が街にあふれている。これにより必要ではない情報を無意識に見てしまっている状況を生んでいる。さらに、その情報を“見る”姿でいえば、スマホを覗き込む姿が美しくないのだという。例として見せてくれたのが、スマホを覗き込む人々の姿と、家電量販店の文字だらけの無数のポップだ。直接的で一方的な視覚情報だけでは、利用者にとっても街や日常の風景にとっても“不健康”なのだ。視覚的な情報を減らし、臭いや音、触覚などの感覚をプラスするような、五感全体で感じる情報コミュニケーションの可能性を探り、気持ちよい経験を大切にしたデザインへと進化させていくことが大切だとツェッペリンは考える。

家電量販店にあふれる過剰な文字情報(写真/株式会社ツェッペリン)

会場との意見交換に移り、まず議論となったのは“情報の価値”の捉え方だ。現状では屋外広告は目立つことだけを考えた巨大なものが多く、街に溢れるその他の情報も圧倒的に文字が多い。現代社会では、スマホやインターネットの普及により情報が溢れかえっていて、本当に必要な情報を見つけにくく、情報の真偽さえも曖昧な状況となっている。情報の価値が不明瞭になっていることについて、会場からの意見で興味深かったのは、例えば観光という視点でその土地に行かなければ得られない情報などを絞り込み、あえて見せないことで差別化を図り、地域固有の情報に付加価値を与えるという意見だ。

全ての情報が直接的で平均的になることで、必要な情報が埋もれてしまうと言うことは、むしろないのと同じになってしまう。情報の価値付けと、視覚のみに頼らない表現手法の洗練の必要性を感じた。

次に話題は屋外広告のあり方に移り、ある参加者から挙がったのは「余白の必要性」という考え方だ。例えば建築中の仮囲いなどに広告を掲示する場合、広告ですべての面を覆ってしまうのではなく、余白を残しその分も含めて広告費を徴収するという考えで、景観への意識を啓発する狙いだ。これに連動して考えたことは、広告に付加価値を与えるということだ。

今の屋外広告は、商品やサービス、企業イメージを看板という形で直接的に伝えるものが多いが、他の機能は一切持たない。例えば、企業が取り組むCSRの一環として、社会貢献の視点でどのように広告を街に埋め込むか。看板という「街に付け足す要素」ではなく、既存の施設と関連づけてその一部に「取り込んでしまう」という考えだ。例えば、安全や健康に関連づけて、白線の代わりになったり、注意喚起になったりと、広告に別の機能を持たせることは考えられないだろうか。広告を一概に悪く言うつもりはないが、もし景観を阻害する要素として捉えられるならば、「なくす」ではなく、いかに「違和感なく埋め込むか」を考えるべきだと思う。そのあり方は、二次元の「看板」という形態による一方向の情報伝達に留まらず、さまざまな付加価値と機能を持つ形態へと変化していくことになるだろう。

そして、議論が屋外広告問題に傾いたところで、ひとりの参加者から次のような意見を頂いた。「街のスキマを広告で埋めるという発想で話が進んでいるが、広告が良くて子供が描く絵がダメだという発想は理解できない」。人の感受性、温もりという点では、広告からはそれらは感じられないのだという。街において広告は必然的な存在ではない。街という視点に立ち、施設や空間の活用を考えるべきだ、という意見だ。この発言をきっかけに話題は街づくりにまで広がった。

常々僕は、景観とは「成り立ち方」と「受け入れ方」の関係性で成立すると考えている。この参加者の意見も同様の考えと感じた。そして、会場からの意見もまちに住む人たちの意識という点に集中した。ある参加者は、景観の善し悪しは、住む人たちが“わが街”をどれだけ意識するかによって決まるという。そのためには、人が集まってどれだけ街を元気にできるか、ということが大切になるのだ。

住む人の意識と街の盛り上がりが景観や文化の質を高め、街への誇りにつながる。このことは、冒頭に西村氏がいみじくも話した“祭”につながる話かもしれない。

今回は、公共施設・空間の利活用のあり方から、屋外広告と景観について議論を進めるつもりでいたが、思いもよらず人の意識や街づくりにまで話題は広がり議論も深まった。つまりは、空いたスペースを広告で埋めるようなことを簡単に考えてはいけなくて、人や街の視点で考えることが大切であるということだ。とは言え、モッタイナイ空間を有効活用する方法は広告に限ったことではなく、今後街づくりの中で考えて行くべき課題であることは間違いない。

「デザインのあしもと」では、舗装にはじまり自転車や車と道路との関係性について議論し、街のあり方につなげる考えでいたが、今回は残り2回のテーマにつながる深い議論になったと感じている。この盛り上がりを持続しつつ、次回はまちを使う人々の意識・マナーの問題について、幅広い議論をしてみたいと思う。(文/御代田和弘)

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