『タオ自然学』
フリッチョフ・カプラ 著/吉福伸逸他 訳(工作舎 2,310円)
『呪術師と私―ドン・ファンの教え』
カルロス・カスタネダ 著/真崎義博 訳(二見書房 2,310円)
評者 ワダ・サトシ(カーデザイナー)
「今、再び開かれる本─心の処方箋」
「いかなる道もひとつの道にすぎない。 に従うかぎり、道を中断してもさげすむ必要はない……あらゆる道を慎重によく見ることだ。必要とあらば何回でもやってみるがいい。そして自分に、ただ自分ひとりに、つぎのように尋ねてみるのだ。この道に心はあるかと。心があればいい道だし、なければ、その道を行く必要はない」(文中より)。
もう25年近い昔の話である。美大に入りデザインのデの字もわからなかったとき、恩師ともいえる先輩の本棚から1冊の本を発見した。『呪術と私─ドン・ファンの教え』の強烈な引用文から始まる、現代科学と東洋思想の統合を図ったフリッチョフ・カプラの『タオ自然学』である。私はこの本に記された発想やそれを取り囲む環境に大いに興味を持った。
後に、私はカーデザイナーとして創造活動をスタートするわけだが、純粋にデザインを考えれば考えるほど、その「本質」とは何かが違うと感じるようになっていた。日本にはモノがあり過ぎる。多過ぎて生活者はモノの価値に麻痺している。デザインの質とはその社会、そしてその社会の人の心の質そのもの。そしてデザインの本質的な狙いとは人の物質的な豊かさではなく、人の精神的な豊かさだとは誰もがわかっていても、それは歪んだ理想論とされてしまう日本の現状。やり過ぎは人やその社会を病気にするのだろうか。
現状の高消費経済体系でのデザインは企業の生き残り競争の最後の目玉となり、だからこそ他とは違った商品を常に求め、デザインはオーバーヒートし、起爆剤の手助けをするようになる。もちろん消費社会を否定するわけではない。このような社会であるからこそデザインのやるべきことはたくさんあるはずである。
1970年代初頭に書かれた2つの本を結び付けたのは決して偶然ではない。第2次世界大戦後、近代化に猛進した先進国は70年代にさまざまな社会問題を巻き起こした。そしてこの問題は止まることなく今も 第2、第3世界に受け継がれている。人はなぜ同じ過ちを繰り返すのか。『タオ自然学』のなかでカプラは、「科学に神秘思想はいらないし、神秘思想に科学はいらない。だが、人間には両方必要なのだ」と述べているが、こんな思想のなかに何か解決の糸口があるのかもしれない。
東洋思想の教えを説く“タオ(道教)”、そしてヤキインディアンである“ドン・ファンの教え“は社会が見失いつつある人の「真の心」を取り戻そうとする心の処方箋でもある。
2冊の本には、共通した次のような問いかけがあるように思える。「私たちにはいったい何ができるのだろうか?」。答えは簡単であって、簡単ではない。たぶんドン・ファンならこう答えるのではないか。「各自、よりよく知ること、そして自分の心を整えることだ」と。
社会に善と悪があるように、デザインにも善と悪がある。私はこの歪んだ消費社会の自動車産業でデザインを行っている。客観的に見れば問題だらけである。自分は本当に真のデザインをしているのか? そんな思いに立ったとき、私はこの2冊の本を開く。そして自問自答する。「私にはいったい何ができるのだろうか?」。 (AXIS 123号 2006年9・10月より)
「書評・創造への繋がり」の今までの掲載分はこちら。