『ただの私』
オノ・ヨーコ 著 飯村隆彦 編(講談社文庫 495円)
『グレープフルーツ・ジュース 』
オノ・ヨーコ 著/ 南風 椎 訳(講談社文庫 680円)
評者 韓 亜由美(アーバンスケープ・アーキテクト)
「彼女への色眼鏡が、ぽろっと外れる」
2003〜04年、オノ・ヨーコのアーティストとしての軌跡を辿った回顧展「YES オノ・ヨーコ」が、国内5カ所で開催されたのが記憶に新しい。彼女の時代を貫いたアート活動の紹介は、彼女への評価を改めて揺るぎないものにした。一方、私個人のなかでは、ヨーコの活躍した60〜70年代がもはや遠いこともあり、世間で語られ続けたイメージ(ビートルズ解散の元凶だとか、ジョン・レノンの悪妻だとか)は拭い切れなかった。『ただの』を読むまでは。
本書を手にしたのは、アート作品やマニフェストではなく、彼女自身の肉声、過去から現在に至る日本語の文章である、という点に興味を引かれたからだ。ヨーコが70年代から日本語で記した、自伝的文章とフェミニストとしてのエッセイ、異なる時代の日本人によるインタビューなどで、86年に初版が刊行、90年に文庫化されている。そこには、彼女の幼少時代から、ジョンに出会う前後のアーティストとしての活動の変遷など、そのときその時代の、知られざるひとりの等身大の人間・女性としての素直な心情がいきいきと綴られている。
世界のビートルズの、ジョン・レノンの妻「オノ・ヨーコ」が置かれた状況と、「ただ私でありたい」彼女自身のせめぎ合いは酷いほどだ。読み進むうち、私の眼の前に貼り付いていた彼女に対する色眼鏡が、ぽろっと外れてしまった。それは、30数年も前の独白的で飾らないぶっきらぼうな文章だったり、辛辣でユーモアに満ちたフェミニズムの文章だったりするわけだけれど、不思議なことに、知らずにうなずくほど妙に共感したり、あんまり痛快で吹き出しそうになったりするほど感応していることに気づいた。
現在の自分が、四半世紀ほども歳の違う、超有名女性の半生と通じる部分がある、というのは驚きだ。時代や状況設定、程度は別としても、表現者として(マイノリティーとして)正直に生き抜くということに、世間は容赦ないものなのだ。そう実感してみる。
2月、トリノオリンピックの開会式の演出の目玉として、イタリアが世界に誇る主役たち(パヴァロッティからフェラーリのF1カーまで)が次々に競技場に登場した。そんななか、純白のスノースーツに大きなサングラス姿の小柄な東洋人のオノ・ヨーコが、ひとり静かに「イマジン」の詞を世界に向かって語りかけた場面は、誰の目にも強いインパクトを与えずにはいられなかった。
もはやポップスの名曲の域を超えて、普遍的な平和と愛のメッセージになったイマジンは、そもそも、ジョンがヨーコの(“インストラクション”と本人が呼んでいる)詩集『グレープフルーツ』にインスパイアされたものだと彼自身が語っている。まず、先入観を取ってから読み上げてみよう。すると心の鎧がほどけ始める。痛点を不意に突かれるかもしれない。でも恐れずに進んでみよう、子供のような素直さで。すると、一見難解な言葉の意味が染み込んでくる、感動のさざ波。
女性のクリエイターには、同じ表現者、コミュニケーションを職業とする者として2冊ともぜひ読んでみてほしい。もちろん、傷だらけの男性にも(以下は『グレープフルーツ』より、建築家向けの一篇。評者訳)。
幻影の建築家へ捧げる 1965年、春
点線で家を組み建てなさい
無いものを想像させなさい(あるものを忘れさせなさい)(a)
無いものを忘れさせなさい(あるものを受け入れさせなさい)(b)
(AXIS 121号 2006年5・6月より)
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