『ダーウィン的方法―運動からアフォーダンスへ』
佐々木正人 著(岩波書店 3,360円)
評者 深澤直人(デザイナー)
「意図」
真実の輪郭が見え始めるときがある。もともとその真実自体が何であるかを把握しないままその輪郭が濃さを増していくことがある。暗闇で何かの像をつかもうとして見えてくる幻覚が幻覚でなくなる瞬間のような、あるいは紙にペンで円を何回も重ねて描いていった結果として線の集合が正しい円を成していくような感覚である。
この本に描かれていることをうまく説明できない。同じ箇所を何回も読み直しながら進むうちに、見えてくる像のようなものがある。著者自らもその正確に見えない輪郭を探り当てるように研究と思考と時間を重ねている感じがする。そして、ぼやっと浮かび上がってきた何らかの事実が記述されている。私はこの本を読みながらもう1つ別の何かを考えている。その別の何かの軸を持ちながらこの本を読んでいる。探し当てようとしている真実の姿なのか、あるいはそのプロセスなのか。それはデザインという作業あるいは行為を通じて常に触っている何かとの合致を見たいという願望の現れかもしれない。
この本は「意図」について書いている。人間は行為が「意図」によってなされていると思っているが、著者は言う。「もし意図について『実現する行為の細部までの正確な特定』というような定義を保持しようとするならば、意図は行為が実現するまでは存在しないことになるのである。行為に先行して私たちが『意図』を『自覚』することは確かである。しかしそのように『自覚された意図』は行為とどこまで関係するかまだ決まっていない」。
著者は運動には先端があると言う。それを選択の相ともいい、野球の打者がボールをできるだけ身体の近くに来るまで見続けられるとか、卓球のラケットに球が当たる寸前まで選手がラケットの面の向きを変更し続けるとか、共に倒れ込む力士が「遅く落ちる」ことで勝利するといったように、決定をできるだけ遅らせることができる能力に長けていることが運動能力の高さであり、それが運動の先端であると言っている。結局運動とは環境との接触のことであり、その運動の先端に存在する「錯誤」と「意図」の関係を解き明かそうとしている。「意図」は環境によって生成されるというような理解でいいのだろうか。このことが私の興味を最も釘付けにしている。
ダーウィンはミミズが落ち葉のどの部位を認識し、土の穴を埋めるためにその落ち葉をどのように引っ張り込むかを観察したという記述が載っている。彼はその観察からミミズには思考があるのではないかと仮説する。このダーウィンの姿勢同様に著者のさまざまな観察と細部の記述から割り出される身体と環境の関係と心理、思考への考察は並大抵の細部ではない。視覚障害者の歩行を習得する過程の観察を記録した「運動はどのように環境に出会うのか/ナヴィゲーションと遮蔽」の章、「縁石」で著者は「眼には見えない伸縮する『ゴム』のようなもので歩行者と縁石がつながっている。(中略)その情報は弾性体のように伸縮する。もちろん縁石に『弾性』を与えているのは移動者である」と言っている。(AXIS 117号 2005年9・10月より)
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