和田精二(湘南工科大学教授)書評:
赤瀬川原平、藤森照信、南 伸坊 著『路上観察学入門 』

『路上観察学入門 』
赤瀬川原平、藤森照信、南 伸坊 著(筑摩書房 819円)

評者 和田精二(湘南工科大学教授)

「意味のないところに意味を感じ取る」

しばらく前に、画家で作家の赤瀬川原平が著した『老人力』という表題の本がベストセラーとなり、老人力という概念がブームとなった。この本の冒頭に、老人力という概念が路上観察学会会員(作家の赤瀬川原平と建築史家、藤森照信、イラストレーター、南 伸坊)との会話の中から生み出されたこと、それは遊び心の産物すなわち冗談であったはずなのに、新聞に連載されたとたんに反響を呼び、老人力という概念を真面目に考えようとする人々によっていつの間にか冗談でなくなったことが記されていた。

その3人が『老人力』上梓の12年前に著した本が『路上観察学入門』である。路上観察学という概念はブームを起こさなかったから今でも冗談にとどまっている。冗談が冗談でなくなることはよくあることだが、虚実の狭間から情報発信し、ときには虚実逆転を生じさせて楽しもうとするのが3人の目論見だと思う。路上観察学会などあろうはずもなく、観察学の学も雑学の学である。だから、路上観察学がデザインの方法論として参考になると期待したとたんに期待は野暮と化すのである。

路上観察学は今 和次郎の孝現学に依拠している。考現学も路上観察学も見る側の鮮度が落ちたらただの作業と化してしまうから、目の鮮度は絶対条件となる。その目をぱっと開かせたのが今にとっては関東大震災であった。民族学者の柳田国男のもとでもっぱら田舎の調査をしていた今は、震災を契機に柳田と別れ、都会の現代風俗調査へと大転換を遂げた。田園のあぜ道から都会の路上に一転したのである。秩序の積み上げで成り立っている人間社会で使われてきた人工物が震災で壊れ落ちて地面に平らに並ぶと、すべて等価になってしまう。今はそこに考現学のきっかけを発見した。その考現学よろしく戦災の跡に生まれたのが路上観察学であるというが、これも冗談である。3人3様にそれぞれの観察が始まった出自を紹介しているが、震災に対しての戦災は彼ら特有の見立てである。

路上にあるものを、いつもと視点を変えて見ると新しい発見がある。赤瀬川原平のトマソン捜索と称する観察、南 伸坊のハリガミ観察、藤森照信や堀 勇良ら東京建築探偵団の西洋館探しなどが事例として紹介されている。この世にあるすべての人工物は意図の結果として存在している。自称路上観察学会会員は、観察によってその意図からずれてしまった部分の発見に努める。見立てをして楽しんでいるのである。対象物が何かに見えること、それは見立ての発生である。対象物を何か他のものに見なす姿勢に見立てが生まれ、観察する意思が芽生える。歌舞伎は見立てだらけの世界だが、路上も目を転じればさながら大舞台となる。路上観察学は見立てを洒落に落とし込む遊び心の所産である。ときにドブ川を流れる浮遊物を採集し、ときに犬猫の後をつけ、ときに廃業した銭湯の煙突のてっぺんに登りつめる。路上観察学の凄さは、意味のないところに意味を感じ取るところにある。もっと凄いのはその途方もない好奇心と観察するための行動力である。

デザイン視点からこの本に意味を感じることは著者の思惑にはまる野暮なことであろうが、あえて言えば、現場に出て観察することの少なくなったデザイナー、効率優先思想によって観察を調査会社に任せデータから市場を推察するようになったデザイナーに、観察することの重要さを再認識させてくれる本である。こう書くと、またまた冗談が冗談でなくなってしまうのだ。(AXIS 116号 2005年7・8月より)

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