REPORT | 建築
2011.10.05 15:42
「メタボリズム」とは、1960年に東京で行われた世界デザイン会議で発表されたマニフェストである。同会議の準備の席で、建築評論家の川添 登、建築家の大高正人、菊竹清訓、黒川紀章、グラフィックデザイナーの粟津 潔、インダストリアルデザイナーの栄久庵憲司がメタボリズム・グループを結成。彼らは、戦後の復興期を終え、これから経済成長に向かう時代が目指すべき都市の姿や建築のビジョンを、日本独自の建築理論として世界に向けて発表したのであった。
メタボリズムでは、DNA螺旋や細胞など生命を支える構造やシステムに倣って、“新陳代謝”つまり環境に合わせて自ら活発に変化し、増殖していく都市や建築のあり方を提唱した。若き建築家たちは競うように、“コア(核)”を中心に空中や海上などに広がっていくメガストラクチャーや、交換可能なカプセルといった斬新なコンセプトを打ち出していった。
本展は、森美術館と建築家であり評論家でもある八束はじめ(芝浦工業大学工学部教授)の企画により、約500点に上る展示、約80のプロジェクト紹介というかつてない膨大な資料が集められ、その誕生前から現在に至るまでの、半世紀にわたるメタボリズムの全貌を振り返る内容となっている。
メタボリズム以前を紹介する第一章「メタボリズムの誕生」では、1955年に焼け跡となった広島市に竣工した「広島ピースセンター」の模型が中心に据えられる。丹下健三は、原爆によって壊滅した都市の復興計画とともに、広島ピースセンターを単体の建築としてではなく新しい都市の“コア(核)”と考え、広場、慰霊碑、原爆ドームを一直線上に臨む景観を提案。それは、敗戦という現実を乗り越えて未来に向かうための、都市そのものの考え方を示したものだった。
1958年に竣工した菊竹清訓の自邸「スカイハウス」は、4枚の壁柱によって支えられる仕切りのないワンルームの家である。これは経済成長に伴う人口増加と核家族化といったライフスタイルの変化に対応し、夫婦を基本単位とする新しい家族のあり方のための、住居の原型としてとらえられた。
▲「広島ピースセンター」コンペ案の模型。壊滅した広島市の復興都市計画と広島ピースセンターは、丹下健三の戦後の出発点となった。1955年竣工。
▲菊竹清訓「スカイハウス」1958年竣工。
続く第二章「メタボリズムの時代」は、丹下健三研究室が1960年に発表した「東京計画1960」からスタートする。これは丸の内から東京湾を横断し、千葉県木更津へと至る海上都市の構想だ。飛躍的な人口増加によってパンク状態になった東京をさらに放射状(求心型構造)に広げるのではなく、海上を使って帯状(線型構造)に拡大するという考え方である。オフィスや公共施設、住居などを擁する空中都市(棟)が一定間隔で並び、その間に三層の交通網が張り巡らされる。予算が検討され、報告書もまとめられたが、実現には至らなかった。
▲「東京計画1960」2011年。1960年に発表された「東京計画1960」の模型をCGに起こして映像化された。
同章ではさらに、ともに丹下の弟子としてライバル関係にありながら、近い思想を展開していた黒川紀章と磯崎 新が描いた都市計画を対比させたり、「海上都市1963」(菊竹清訓、63年設計)「シャンデリア都市」(栄久庵憲司、64年発表)、「ゴルジ構造体」(槇 文彦、67年発表)などを紹介。実に発想豊かな都市のあり方が検討され、果敢に発表されていたことが明らかにされる。
▲ライバル関係にありながら近い思想を持っていた黒川紀章「東京計画1961—Helix計画」(手前)と、磯崎 新「空中都市—渋谷計画」の模型(奥)。
▲槇 文彦が1967年『建築文化』6月号に発表した高密度都市としての「ゴルジ構造体」。都市の密度を高めるため、建築同士の隙間を共用空間として活用することを提案。実施されることはなかったが、外部を半屋外のように取り入れる現在の建築に通じるところもある。
▲「カプセルとコミュニティ」と題した展示室には、黒川紀章や菊竹清訓による一連のカプセル建築の模型が並ぶ。
▲黒川紀章による「中銀カプセルタワービル」(1972年竣工)は、カプセル住宅の1つを修復し、六本木ヒルズ内に展示する。
▲菊竹清訓が1980年に提案した集合住宅の型。
第三章「空間から環境へ」では、メタボリズムが建築(空間)という分野を超えてデザインやアート、音楽、写真など多方面に影響を与え、相互的に誕生していった“インターメディア”な活動を紹介している。例えば、メタボリズム・グループにグラフィックデザイナーとして参加した粟津 潔は、雑誌の表紙やポスターなどを通じて、その考え方を展開した。ほかには、66年に開催された「空間から環境へ」展に参加した山口勝弘や高松次郎といった前衛アーティストの作品も紹介。メタボリズム運動が人々の「環境」に対する関心を強め、さまざまな領域を巻き込みながら、いっきに大きな“うねり”として発展していった様子が伝わってくる。
▲グラフィックデザイナー、粟津 潔の仕事の数々。
▲中央は、アーティスト・山口勝弘による作品「装置(作品)」。
そして、その“うねり”は70年の大阪万博をもって最高潮に達する。「人類の進歩と調和」をテーマに、多くの建築家、アーティストが参加したこの祭典こそ、メタボリズム運動の集大成、クライマックスでもあったのだ。
▲1970年大阪万博のパビリオン群はまさにメタボリズム建築の見本市のようであった。
▲会場のランドマークとして建てられた高さ127mの「エキスポタワー」(菊竹清訓)の一部。現存しない建築のこうした実物資料をどのように保存するかも今後解決しなければならない課題だ。
大阪万博をピークにメタボリストたちは海外に進出し、日本におけるメタボリズム運動は事実上の終焉を迎える。結局、日本では万博パビリオンやわずかな竣工例を除けば、メタボリズムの建築や都市が実現した事例はさほど多くない。しかし、海外では積極的に受け入れられ、地震で壊滅的被害を受けたマケドニア・スコピエの復興計画(丹下健三)や、中国・鄭州市のマスタープラン(黒川紀章、磯崎 新)をはじめ、世界53カ所で大規模なプロジェクトが展開されている。
現代の私たちがメタボリズムを「実現しなかった夢物語」と一蹴することはたやすい。しかし、当時の建築家や評論家、そしてデザイナーたちにとっては、決して夢ではなかったはずだ。
デザインは時代を映し出す鏡である。日本独自の建築論が生まれた希有な時代。その背景で当時の日本に起きていたことは何か、それに対してメタボリストたちが何を模索し、提唱しようとしていたのか。今こそそれらを振り返ることによって、震災後の復興や原発問題を抱える私たち日本人がどのような情熱や責任感を持って次世代のビジョンを描いていくべきか、ヒントを与えてくれるかもしれないのだ。(文・写真/今村玲子)
「メタボリズムの未来都市展 戦後日本・今甦る復興と夢とビジョン」
会期 2011年9月17日(土)〜2012年1月15日(日)
会期中無休
月・水〜日10:00〜22:00、火10:00〜17:00(1月3日は22:00まで)
会場 森美術館 53階ギャラリー
入館料 一般1,500円 学生1,000円 子供(4歳〜中学生)500円
今村玲子/アート・デザインライター。出版社を経て2005年よりフリーランスとしてデザインとアートに関する執筆活動を開始。現在『AXIS』などに寄稿中。趣味はギャラリー巡り。自身のブログはこちらまで。