『絵画材料事典』
R. J. ゲッテンス、G.L.スタウト 著/森田恒之 訳(美術出版社 4,725円)
評者 降旗千賀子(目黒区美術館学芸員)
「画材という視点から見えてくる新たな世界」
ある分野で20年近くもひそかに待ち望まれていた本が数年前に再版された。『絵画材料事典』。米国の文化財保存科学専門2名の学者が共著し、日本の絵画材料学の第一人者で、『画材の博物誌』(中央公論美術出版)の著作もある、元国立民族学博物館の森田恒之名誉教授が30代前半にひとりで4年をかけて翻訳した、その名のとおり、絵画材料に関する事典である。1973年に日本語版として出版されたものの早くに絶版となり、かつて私も古本屋を巡りながらやっとの思いで1冊を手に入れた。
絵具や筆、さらに紙やキャンバスなど、画材というのは人が何かを表現するときにとても重要なものであるはずなのだが、これらが表舞台に登場する機会はほとんどない。日本の美術研究者も学芸員も、描かれた図像と様式ばかりを気にしていて、実際に描くために使われた材料に興味を持つ人は少ない。絵具がメジャーに紹介された例は、北斎や広重が『富嶽三十六景』や『東海道五十三次』などに使用して外国のコレクターをうならせた、舶来の化学顔料「プルシャンブルー」か、ときどき古墳内から発見される赤い顔料「水銀朱」くらいであろうか。
人間の歴史と同じだけ、人が表現しようとしてきた絵画の歴史がある。この本は、画材が人との関わりのなかで深い歴史を刻んできたことも改めて認識させてくれる。
もともと1942年に出版された本書は、博物館や美術館の学芸員や作品の保存管理担当者のために書かれたもので、内容は、展色剤(絵具を形成するためののり剤)、顔料、染料、溶剤、支持体(描かれる布や板、紙)、道具、備品に分かれ、科学用語の解説も付いている。こう書いてしまうと専門用語が並び、とっつきにくく感じるかもしれないが、絵画材料事典という専門書ながら、読み物としても実に楽しく読める。画材の解説と言っても、その範囲は大変広く、美術史・文化史・科学史・物理・化学・動物・植物・鉱物などに及び、1つの事柄の解説には歴史、使用例、化学的組成なども含め広い視点で書かれているからだ。
先に挙げた「朱」を例にとると、古代からヨーロッパ、中国での使用、その文化的な意味、鉱物としての産地、化学的ないくつかの製法、昔の文献についてなど、大変興味深く解説されている。こうしたところが他の絵画技法書とは違う点であり、何より、“画材”という視点からの“素材発見”、“文化史発見”という新鮮な面白さを味わえる魅力があることを強調しておきたい。デザイン書や美術書が美しく並ぶ本棚の片隅に、常備しておく本として、ぜひともお勧めしたい1冊である。(AXIS 109号 2004年3・4月より)
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