『茶の本 』
岡倉天心 著 浅野 晃 訳(講談社バイリンガル・ブックス 1,260円)
評者 竹原あき子(デザイナー・和光大学教授)
「ジャパニーズデザインに流れる『茶』の精神」
岡倉天心が1891年にデザインセンターの設立を発案したのは当時の人々の意表をついた。日本古美術の保存修復の道を開き、日本画の革新に心血を注いだ人物が、デザインという新たな産業の分野にも眼を向けたのは、19世紀末のヨーロッパと米国を視察した岡倉ならではのアイデアだったに違いない。彼は新聞社に次のようなメッセージを送った。
「デザイン発展のグッドアイデアです。東京美術学校交友会では、一般からのデザイン制作をお受けいたします。我が国の美術工芸品はよくなってきてはいますが、まだ問題があります。趣味が悪かったり高度な技術を駆使しながらも形や材質が実用的でなく、役に立たないことが多いのです。特に輸出品としては大きなマイナスになります。それは優秀なデザイナーが少ないからであって、年月をかけて全国的に解決すべきことですが、さしあたって何とかする必要があります。このたび校友会としてデザインセンターを組織、一般の美術工芸家のデザイン依頼に応じます。金属彫刻類、鋳物類、蒔絵類、陶器類、織物類の下絵をメンバースタッフが作成し、質の高いデザインを納入いたします。この情報を一般に知らせてください。なお、デザイン料は、サイズの大小やラフスケッチか仕上げかの違いもあるので定価はありませんが、実費程度を考えております。クライアントにはすぐに連絡いたします」(岡倉天心全集第6巻・平凡社刊より)。
輸出振興にはデザインが大切、と見抜いた岡倉の『茶の本』を読み直すきっかけは、2002年の台湾滞在中にあった。老人の趣味だった茶を楽しむ文化「茶芸」が、台湾の若いインテリの間でブームとなり、大都市のオアシスのような「茶芸館」と呼ばれるティーショップも誕生した。茶をたてる亭主と客がいて、茶の道具に凝るところだけが日本の茶道と同じ。それ以外はまったく違う。日本の茶道は粉茶をたてるが、台湾の現代の茶芸では茶葉から成分を抽出する。この違いは蒙古の侵入後、中国では粉茶をたてる作法が忘れられたからだ。日本に受け継がれた茶の湯とは、実は中国宋代の作法だった、と『茶の本』の第2章「茶の流派」で発見する。
第4章の「茶室」では茶室(すきや)とは「好みの住居」(好き家)であり「非相対的な住居」をも意味し、つかの間の建物だから当座の美的な要求を満たせばいいとある。だから装飾がなく、「不完全なもの」として崇拝された。不完全なものを完成させるために想像力を働かせるよう、故意に何かを未完のままにしておく。この茶道の思想が日本の建築の簡素と純潔を生んだと岡倉は解説する。これを受けてか、現代の日本のプロダクトデザインに非対称性、簡素、純潔があるのは茶道の歴史があるからだ、と論文に『茶の本』を引用したのは筆者が教鞭をとった台湾の大学院の学生。
『茶の本』は1906年に英語で出版された。茶道の魅力を語りながら日本と東洋の文化の素晴らしさを欧米に向けて呼びかけた本書は、ほぼ1世紀後に中国文化の継承者である台湾の学生が日本のデザインを分析する書となった。皮肉にも英語で出版されたからこそ彼らの視野に入ったのだ。学生たちと『茶の本』を読みながら、岡倉が「art」としているところを「design」と読みかえてもおかしくない箇所を多く発見した。ことに「芸術に対する茶の宗匠たちの寄与は、まことに多彩なものがあった」と説く第7章「茶の宗匠」では、全編artをdesignと読みかえてもいい。この最終章で「美しいものとともに生きたものだけが、美しく死ぬことができる」と岡倉は利休の死を描く。『茶の本』は国境を超えたデザインの本でもある。(AXIS 105号 2003年7・8月より)
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