斎藤 孝 著(NHKブックス 1.019円)
評者 和田精二(湘南工科大学教授)
「身体の問題はあらゆる問題に通じる」
今、日本語をテーマにした本が書店の店頭を賑わせている。代表格は120万部を売った『声に出して読みたい日本語』(草思社刊)。著者は標題の本『身体感覚を取り戻す』と同一人物である。出版業界における日本語ブームは一定周期で現れては消える。前回のブームの火付け役は大野 晋氏の『日本語練習帳』(岩波新書)で、今回は『声に出して読みたい日本語』。この本は周辺に登場した便乗本とはやや趣が異なる。今回のブームも早晩終息するだろうが、『声に出して読みたい日本語』と『身体感覚を取り戻す』の著者である斎藤 孝氏が投げかける提案の重さが便乗本の存在を軽く見せてくれる。大きな書店へ行くと、この2冊以外にもこの著者の本を少なくない数で発見できる。誠に元気のいい人である。
彼は、自信を失い生きる気構えを見失った日本人に対して、身体文化と日本語の暗誦・朗読文化という2つの提唱をしている。具体的な対応策を子どもの教育の場で発想し実践してきたところがユニークで説得力もある。読者の大半は成人と思われるが、著者が文化伝承運動の対象としているのは未来を託す子どもたちである。身体文化と暗誦・朗読文化の衰退が日本の伝統文化、それも精神文化の衰退に大きく影響していることを一連の著書から容易にうかがい知ることができる。最近の30年における身体感覚の変化と衰退のほうが、戦後30年ほどの変化よりいっそう重大であるという指摘は、内政・外交・経済などの世界を思いおこすと納得できる。
著者によれば、最近、自己の存在感の希薄化がしばしば論じられるが、自己の存在感を感じるには心理面だけでなく身体感覚の助けが必要である。ところが、その身体感覚について言えば、70歳代以上の人たちが持っている身体を鍛える技が下の世代に文化として伝承されていない。なかでも、腰・肚(ハラ)文化の断絶が致命的であるのは、「腰を据える」「肚を決める」ことは、人間が生来有している感覚ではなく習慣や修練によって形成される身体感覚であり、身体の中心感覚、いわば「芯感覚」とでも呼べるものだからである。腰・肚が鍛えられていないから「芯が通り」「一本筋の通った」人間が出てこない。
かつての、座る・立つ・歩くといった日常的な身体文化に加え、呼吸文化や帯を締める文化の衰退は日本人の身体感覚を急速に衰えさせている。そこで著者は、日本の文化が失いつつある身体感覚を取り戻し、子どもたちを21世紀に覚醒させるべく「身体カリキュラム」を考案し、技としての座る・立つ・歩く姿勢の訓練や呼吸法の体得を指導してきた。このように、身体に対する修練によってこそ身体感覚が形成されるという考え方と同じ基軸に立った発想が、暗誦・朗読文化を積極的に国語教育の中に取り入れていこうという考え方である。
英国ではシェイクスピアやバイロンが、フランスではラシーヌなどが学校教育の中でも暗誦され国民の共通文化となっていることを考えると、現在の日本ほど暗誦文化をないがしろにしている国はないそうである。子どもに媚びて教科書から童謡を追い出してポップスにすり変えるのは愚の骨頂。いい作品をどんどん暗誦させることは、一流の美術鑑定士になるためにはひたすら一流の作品を見ることだという考え方と通じるものがある。
さて、デザインはマン・マシン、ヒューマンインターフェース、人間主体、人にやさしい、といった言葉の多用に象徴されるように、人間に近いところから発想していく職能である。それゆえ、人間自身の精神や肉体の時代的な変化についてはことのほか鋭敏だから、この身体文化の復活という考え方に大きな興味を抱く。もう1つの関心事は、著者の20年にわたる地道な仕事を、デザイナーの能力、デザインの方法論、(ついでに)成果のビジネス化といった見方で観察していくと、デザイナーの活動と著者の活動に大きな差異が感じられない。著者の仕事を「教育のデザイン」と捉えたとき、デザインの境界は容易に拡大していく。デザインの側でも身体の問題を積極的に扱い始めている。こうして隣接領域から強い刺激を受けることはデザインにとって素晴らしいことだ。ここは1つこの提唱をデザインの側からも「地に足をつけて」考えてみる必要がありそうである。(AXIS 99号/2002年9・10月より)
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