『九鬼周造エッセンス』
九鬼周造 著(こぶし書房・2,940円)
評者 深澤直人(デザイナー)
「日本的性格」
九鬼周造の『「いき」の構造 』(岩波文庫)を読んだのは今から12、3年前だったと思う。
あるデザイン誌のインタビューの中でエットレ・ソットサスが読んだ本としてそのタイトルが載っていて、すぐ買って読んだ。とても文章が難しく何度も繰返し読んだ。その衝撃はすごかった。ちょうど私はその頃渡米したばかりで、日常的に日本人であるということを意識せざるを得ない状況にあった。日本を遠くから一括して眺めているような感覚があった。九鬼も『「いき」の構造』をパリに滞在したときに書いているから、なにか日本を眺めながら郷愁の素となる曖昧で説明のつかない哀愁を帯びた日本的な美の現象をいやがおうにも掘り起したくなる欲望にかられていたとすれば、強く共感できる。
日本にしかない形のない美の存在は日本列島全体を薄く覆う空気の層の匂いのように、そこに暮らす日本人の身体から紛れもなく発散されているように思えた。その空気の層の外に出てしまったことによって、身体にまとわりついていたその曖昧な美の感覚がはがれていってしまうのではないかという恐怖感が常にあった。
日本人の美意識を問うときと同様に、この「いき」という言葉にしても、その何たるかを感覚的には捉えていても論理的に説明しきれないものが、日本の美の表現には多いことがわかってきた。それらはいったん例えをもって説明されたとたん、言葉が含んでいた抑揚のある柔らかなキャパシティは小さく具体的に凝固してしまう。その柔らかなキャパシティを解析し定義することの難しさをこの本によって知った。
「いきの構造」は3つの意識現象、「意気」「媚態」「諦め」によって説明されるのだが、その意識を成す部分と具体的な形としての「いき」を見せることに結び付いて論考しているところがすごい。例えば「いき」とは「媚びる」と「諦め」であると言っている。達成し得ないことを「諦め」たうえで、かつ達成に「媚びる」意思によって「いき」となる。その意識現象は永遠に交わらない2本の平行線を比喩とし、着物の縦縞模様や格子戸のように具体化されるものとして解説されている。その縞の微妙な太さや色の差異によって崩れさる芸術性と繊細さを「いき」の精神性と重ね合わせて解いている。
最近『九鬼周造エッセンス』を書店で見つけて買った。田中久文氏の解説も加わって九鬼の思想や論考が、「いき」に関しても「『いき』の本質」の章によってさらに解き明かされている。
この1冊でさらに私の興味をそそったのは「日本的性格」の章である。デザイナーにしてもアーティストにしても何か日本人としてぬぐい去れないまとわりつきや染み込みの正体、例えば、蓴菜のぶよぶよのような、あるいは水鳥の羽の油のような、目には見えないがそれがないと存在意義がないものに触れたいという衝動に常にかられていることは確かである。
九鬼はここで日本文化の3つの契機は自然と意気と諦念であると言っている。それによって日本的性格を定義し、解き明かしている。もちろんそこには『「いき」の構造』との深い関係を読んで取れる。「日本芸術における『無限』の表現」「偶然の諸相」「風流に関する一考察」「『流行』の存在論的形態」など、すべての章が興味深く、とうていこの欄で紹介しきれるものではないが、まずは『「いき」の構造』から読んでほしい。そして、その難解な文章と解釈に屈せず芸術的思考回路を回転させ日本的抽象美の視覚化に挑戦してほしい。そして、その後に『九鬼周造エッセンス』を読むといいかもしれない。
なぜなら、当然、『「いき」の構造』を読めば、それを書いた九鬼周造的思考の原理を探りたくなるし、私たち日本人を成す、その蓴菜のぶよぶよをより解き明かしたくなるからだ。これは九鬼自身を成しているものに、より焦点を当てている。戦後日本の思想と哲学の原点を探り当てたセンサーを見ている。
私にとって「諦め」という、日本人の根底にある美の意識現象を知ったことは衝撃だった。「諦め」は妥協ではない。「わきまえ」かもしれない。思えばデザインも、わきまえのないこだわりや妥協による言い訳では美しくならない。こだわり続ける意思は諦めの前提によって輝き、自立し続ける。「諦め」は自己を解放し自然に逆らわない、凝固することのない美を生むものなのだという感覚を私は『「いき」の構造』との出会いによって得たような気がする。(AXIS 99号/2002年9・10月より)
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