『超日常観察記 ヒト科生物の全・生態をめぐる再発見の記録』
岡本信也+岡本靖子 著(情報センター出版局・1,427円)
評者 深澤直人(デザイナー)
「そうそう、そうなんだ」
きっとデザイナーなら、「そうそう、そうなんだ」「私は知ってた」と、悔し紛れに言ってしまいそうな本である。これは作者(著者)の岡本信也と岡本靖子夫妻が、誰もが日常目にする光景をつぶさに観察し、記録した本である。観察の記録はほとんどがスケッチ(イラスト)で描かれていて、見ていると、頷きながら、ほのぼのと微笑んでしまう。それは紛れもない、日常を共有する喜びの感覚である。
その克明な観察のアイテムは多岐に渡り深い。「どうしてこんなところまで見ているんだろう」と敬服してしまう。路面に捨てられたガムでできた斑点の跡や、街に無造作に置かれた空き缶をつぶさに観察し、そこに人の動きの痕跡を見たりしている。それはまるで路面の砂が風で飛ばされながら吹きだまりができるように、動かされてしまう人の跡が見えてくる。髪の毛をよじる指の仕草やストローの袋のねじり方、電車の席に座ったときの脚の組み方や視線、食堂の昼定食を口に運ぶ順番、例えば、みそ汁、マカロニ、マカロニ、キャベツ、マカロニ、カツ、ごはん、ごはん、みそ汁、……を全部スケッチしている。銭湯で観察した下着とか着衣の順番では、一度に観察しきれないので何カ月もかかって、しかも風呂に入った気がしないという苦労話が出てきて笑える。その観察の根気に驚く。
観察の手法として考現学採集というものがあるらしい。考現学採集は大正末期から昭和初期にかけて始まったもので、考古学者が古代の遺跡を発掘する手法のように、考現学は現代の表層部を採集し、人の生活・風俗を観察することらしい。
それぞれの観察の項目の終わりには岡本夫妻の会話が載っている。さりげない会話に、人の生態や行動の普遍が浮かび上がってくる。例えば、定食の観察のときは、「人の食べ方はわかったけれど、自分が何口で食べているか調べたことはまだないねえ。自己観察はやれないことはないけど……、日常無意識にやっていることを観察しようとすると、ぎこちなくなるってことはある」。また、工事現場などにある車止めを観察しながら、「ただ、こうした手法で車止めの全体を知った後に、もういちど資料を白紙に戻して混沌の世界に押し込む。車止めの全体を知った、というのは自分自身の思い込みに過ぎないこともあり、白紙に戻して街を見て歩く。すると、これまで見落としていた事柄が立ち現われてくる」と言っている。想像するに、たくさん観ていくと見るものが均質化してきてその同質の中に入るものを探そうとしてしまう。それによって何も見えなくなってしまうということだろう。
「同じ事物を観察していながら、ある人には見え、ある人には見えないという現象が起きる。見えない人でも『ほら、あそこ!』と指示されれば見えるのが観察」と『路上観察学入門』(赤瀬川原平、藤森照信、南 伸坊編、筑摩書房)の抜粋に頷いてしまう。
デザインのプロセスの中にユーザーオブサベ−ション(観察)というのがある。アイデアを導き出す源のようなもので思い込みを捨てて、生活や行為のリアリティを見ることである。しかし陥りやすいのは、オブザベ−ションというプロセスや手法を辿ることが目的になってしまうことで、間違い探しや、いいこと、悪いことを探そうとして、何も見えなくなることがよくある。
著者曰く「見て歩きの採集は目的意識を強く持ってやる場合もあるが、目的を持たずにぼうっとして見て歩いているときに、向こうから飛び込んでくることもある。日常雑事を観察しようとするには、あまり目的を強く意識しないほうがよい」。
どうも考現学は分析によって何かの結論を導き出そうとしてはいないようだ。デザインも、何か特定のものをつくろうなんて決めたら何も浮かばないのかもしれない。向こうから飛び込んでくるデザインはきっといい。(AXIS 97号/2003年5・6月より)
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