『スロー・イズ・ビューティフル 遅さとしての文化』
辻 信一 著(平凡社ライブラリー 1,050円)
評者 深澤直人(デザイナー)
「『はやく』という呪縛」
内容に共感しながら本を読むときは、読むというよりも、文字を追いながら自己の経験を回想しているような感じがする。今回、共感したのは「はやさについて行かねば」という、誰もが抱える強迫観念である。著者はそれを「自分だけが遅れてしまう」恐さ、ゆっくりの価値を知りながら、はやさを緩められない呪縛のようなものだと言っている。そしてこの本、「スロー・イズ・ビューティフル」は、その呪縛に対抗し、そこから自らを解き放つための、自前のまじないであり、処方箋であり、心構えであり、祈りでもあると言ってる。
「ゆっくり」は、美しい。スピードに象徴され、環境を破壊しつづける現代社会は誰にとっても生きにくい。これは、それとは異なるライフスタイルを求めて、さまざまな場所で模索し、考える人々の言葉に耳を澄まし、「遅さ」という大切なものを再発見するユニークな試みを書きとめた本である。
「ゆっくり」は「エコロジカル」や「サスティナブル」と意味が重なるが、そういった環境の専門書ではない。むしろ、誰もが口にする「今はそれどころじゃない」の、「今」とは何なのかを、文化人類学者の著者は問いかけてくる。
確かに、Eメールによって毎日が前よりも忙しくなった。ただ忙しさだけを消化し、何も達成していないという虚脱感を抱くようにもなった。携帯電話は全員が持つようになれば、「はやい」ことに価値がなくなってしまう。いやむしろ「はやさ」のネットから抜けられなくなる。「はやさ」は進化ではなくシステムの変化なのかもしれない。自分だけでもスローダウンすればいいのにと思うが難しい。それは混雑時の人の流れの中で立ち止まるような恐さがあるからだ。きっと人は「はやさ」を「価値」と捉えるようになって、時の流れの中に点在していた生活の抑揚や味わいを得られなくなってしまったのだ。スローは美的生活の本質であり、その美は視覚的なものではなく、時間と動きの中に存在することをあらためて認識させられる。
デザインという創作行為の魅力に、つくることへの不信感が混ざり始めたのはいつ頃からだろうか。大量に生産し、消費する。それがそのまま廃棄され大量のゴミとなる。しかし、もしかすると「量」への懸念と思っていたことは、つくる、あるいは消費する「はやさ」への懸念なのかとふと思う。デザインは「はやく」ないと意味がないと皆思っている。見えない競争相手のためにあせっている。選ばせるためのデザインの使命は最初に見たときの印象の強さであり、かつ、飽きの「はやさ」である。
この「はやさ」のデザインに比べ、生活に溶け込みながらゆっくりと好きでいられるスローなデザインには、突出した個性よりも背景としての自覚と、使う行為の中で現れる「気付き」のレイヤーの奥行きのようなものが必要なのだと思う。確かにデザインはそのものと巡り会ったときの衝撃や驚きの「はやさ」が美的価値とされ、最初の印象が薄いものや、よくわからないものは排除されがちだった。しかし最近思う。じーと見ていて、「???……。あっ!」と、ちょっと遅れてわかるデザインに巡り会ったときの嬉しさを。受け手と作者が繋がった瞬間の感動を。この数秒の遅れが大切なんだと。
著者は言う。「デザインとは、自らの生活をつくり出す道筋を照らし、かたちを与えることである。小さなもの、つつましいもの、失われたもの、そしてゆっくりと持続し循環するものの意味を見直し、住まう心と技術を私たち自身の手に取り戻すためのデザイン。それを“スロー・デザイン”と呼んでみよう」と。
人がゆっくりと豊かに過ごせるためのデザインがしたいと、この本を読んでいて思った。そのためにまずは自分がスローダウンしなければ。(AXIS 96号/2002年3・4月より)
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