深澤直人(デザイナー)書評:
中沢新一著『リアルであること』

『リアルであること』
中沢新一 著(幻冬舎文庫・440円)

評者 深澤直人(デザイナー)

「デザイナーはきゅうりの生の味を知らず、確かめる勇気を失った」

かねてから人間の見ているものが幻想なのではないかという思いがあった。リアリティを見出せないのではないかと。リアリティを見失しなわせるのは、倫理や常識や思い込みであるが、それとは別にリアルを感じつつも一方でそれを正視することを妨げる何かがデザインという世界を取り巻いているのではないかと感じ始めていた。生産側の言う「魅力づくり」は「脚色」で、デザインはその理由付けの片棒をかついできたが、理由付けは時とともに矛盾を産んだ。デザイナーはきゅうりの生の味を知らないまま、味付けをすることがデザインであると学び、生の味を確かめる勇気を失った。

人は脚色に飽き、リアルな感覚を取り戻したいという身体願望を持ち始めた。幻想を積み上げてきた時代に限界を感じ、逃げ出したいという願望を持ち始めたのではないかと感じていた。

中沢新一は言う。「現実とのあいだに、たくさんのお金をかけて、新しい魅力的なベールをつくりだすことよりも、すがすがしい朝の空気のような、薄い透明な層だけをとおして、リアルに触れていたい」と。
『リアルであること』というタイトルは、私の思いのなかで鮮烈だった。内容を確かめずにその本を買った。

中沢新一の『リアルであること』は人々が気付き始めたリアルへの願望と現実から逃避した後にくる安易な選択の危険を指摘している。宗教的な共同体の危険性をも説いている。この本の初版発行が1997年で、実際彼はそれよりも数年前にこの本を書いた。当時の彼の時代感覚と現代を比較してみると、その予感はより色濃く今に現われているように思う。

文中のコラム『宗教と広告、近くて遠い関係』では、「いまは、欲望の物質化のプロセス自体が行きづまりはじめていて、それが広告を窒息させている原因でもあるけれど、その一方で、社会全体を動かす力が、物質化のプロセスではない方向に動きはじめている徴候があるでしょう。(中略)精神的な領域にかんしては、ちょっとちがう原理が必要だという共通感覚が、人類のなかには発生しはじめている」と言っている。市場経済と精神の方向の違いを感知している。

『柔軟で、大きくなったダライ・ラマの曲芸』にはパリ・ヴォーグ誌のクリスマス号の特別編集長にダライ・ラマが起用された話が出てきて面白い。チベット仏教の世界をモードの世界につくり変えた話は魅力的だ。魅力の吸引力の見い出し方が並外れているが、魅力のある人を探すのではなく、すでにダライ・ラマの吸引力にヴォーグが引き込まれたのかとも感じられる。

『概念の復活』は面白い。中沢は「『概念』が『コンセプト』にすりかわっていったとき、日本人の思考には、大きな変化がおこった。(中略)ひとつのことを深く考え込んでいるよりも、いろいろな場所から、おいしいものばかりをたくさん集めてきて、人の関心を引くものをつくりあげることのほうが、ずっと『クリエイティヴ』だと、思われるようになった。真実であるよりも、魅力的であることのほうが、すばらしいことだ、と思われた」と言いながら、思考のための道具「概念」を蘇らせる必要性を訴えている。『アヴァンギャルド』や『芸術』のコラムも鋭い視点で書かれている。

この本は宗教学者が書いた本で、長い年月における地球規模の変化を知識の素にしていることは確かであるが、企業体や産業のシステムに取り込まれたデザイナーやアーティストがある種、宗教的な力と市場経済の狭間で行き場を失っている閉塞感とオーバーラップする部分が幾つかある。シンプルに書かれているが、リアルとの接触と思考を訴える著者の力強さを感じる。(AXIS 94号/2001年11・12月より)