『俳句への道』
高浜虚子 著(岩波文庫 630円)
評者 深澤直人(デザイナー)
「客観写生とデザイン」
その人の言った「俳句はありのままの現象を詠うもの」という一言は、私にとって衝撃的であった。そして、それはデザイン観を大きく変えるきっかけとなった。私は俳句をやらないし、あまり理解もしていない。それまで俳句は、作者が心情や哲学、理想や時事などをもとに創作して詠いあげる、自己表現の詩であると誤解していた。つまり、心情が先で現象は心情に合わせたものであると思っていた。
その言葉を聞いた頃、私はデザインは主観的表現であるのか、あるいは自己の作品の客観的選択であるのか、というようなことを漠然と考えていた。個性や感情は意図的に表現せずとも感じ取れるものではないかと。そして、意図的な自己表現は醜いのではないかと思い始めていた。デザインもアートも自己表現が前提であることは、私だけでなく一般的な理解であろう。だから、ありのままの現象を詠うだけ、ということはデザインをしないことを意味するような気がした。しかし、その「現象を伝えること」のみによって、作者(デザイナー)と読者(受け手)の間には何らかの疎通があり、共感が生まれる。
いったいその繋がりはなんなんだ。「その見えない繋がり」「確証のない共感」は私を虜にした。
数年後『俳句への道』を読んだ。
『俳句への道』は高浜虚子が岩波茂雄氏(岩波文庫創始者)に岩波新書発行にあたり依頼されて、当時『玉藻』に載せ始めた俳話類をまとめたもので、虚子80年の経験によって書きためられた俳句の思想とメッセージ集である。これは俳句のつくり方を記したノウハウ本ではない。虚子はこの本の中で大きく分けて2つのことを言っている。その1つは「客観写生」で、もう1つは「花鳥諷詠」である。文学や絵画を引用しての説明は出てくるが、デザインの事例は出てこない。しかし私は、何度となく繰り返し説明される「客観写生」が、デザインの真理を寸分違わず射抜いているように思えてならない。虚子は文中で言っている。
「俳句はどこまでも客観写生の技量を磨く必要がある」
「その客観写生ということに努めて居ると、その客観描写をして主観が浸透して出て来る。作者の主観は隠そうとしても隠すことが出来ないのであって客観写生の技量が進むにつれて主観が頭を擡げて来る」
デザインの場合で「客観写生」とは、生活の中で起こっている何気ない現象や人の行為の描写であろうか。何をつくろうかの前に、何を感じたかが先にあるような気がする。あるいは、感じたこと(写生)とつくる(創作)は同時であるように思う。
「花鳥諷詠」は季題(季語)を持つ詩であるということである。季題によって詩は自然との関係性を切り離せない。デザインは人を相手にするものである。人が絶対的な自然であることを、人間は忘れてしまった。それはたぶん「考える」ということが人間であるという独自の思い込みからであり、結果として人間は自然と隔絶した。しかし、人間の身体は環境との調和を怠らない。意識的でない人間のあらゆる行為は自然そのものである。デザインにも「花鳥諷詠」は当てはまると思う。
虚子は言う。
「俳句は激越な文学ではない。それは先天的に極まった性質である。それは季題というものがあるからである。(中略)先天的にきまった性質は変えようと思っても変えることは出来ない」
それは普遍ということなのだろうか。いつしかデザインは「自己」ではなく「向こう側」にあると思うようになった。そして私の中では客観的であるか、主観的であるかがデザインの善し悪しの境目になった。きっと意識的であることは最も美から遠いのだ。
最も新を欲している、いずれも宇宙の現れの一つ、雑感、地獄の裏づけ、求道ということ、やわらか味、その人の現れ……。いずれも目次からの抜粋であるが、読まずにはいられなくなる。(AXIS 93号/2001年9・10月より)