『アキッレ・カスティリオーニ 自由の探求としてのデザイン』
多木陽介 著(アクシス 2,940円)
評者 深澤直人(デザイナー)
「デザインとはこのことである」
この本の冒頭でジャンフランコ・カヴァリアが紹介しているイタロ・カルヴィーノ著『なぜ古典を読むのか』の定義に、「古典とは、初めて読むときも、本当は読み返しているのだ」という一節がある。そこを読んで妄想した。長く険しい道のりを一歩一歩登っていくときには、その険しさに息が切れ、足元の地面をただひたすら見続けているようなもので、周りの景色など見渡す余裕もない。突如その狭い視界に何者かの脚が現れ、それを辿って見上げると、そこには汗一つかかないで立ちはだかる仙人の姿がある。
アキッレ・カスティリオーニである。顔はニコニコと微笑んでいる。何かの助言を残してくれるわけでもなく、すーっと消えてしまう。あれは何だったんだと思いつつ辺りを見渡すと、視界が開けて随分と登ってきたことがわかる。しかし頂きはまだ遥かに遠く、また登り始める。足元を見ながらの一歩一歩のテンポに合わせてデザインのことを繰り返し考えている。何度も同じフレーズが頭に浮かぶ。疲れて何も考えられなくなって、黙々と登っていくと再び彼が現れる。
自分は所詮カスティリオーニがつけた足跡を、あるいは彼のつけた道標の跡を辿ってデザインという道のりを登っているのではないかと思うときがある。彼のデザインをまとめた作品集を見ていると、今まですばらしいと思ってきた多くの有名なデザインが彼の仕事に影響されていることに気付くことが何度もある。みんなこの道を辿ったのかと思うと共感の情が沸き上がってくる。
この本はすばらしい本である。カスティリオーニという人を研究し、この本を書き上げた多木陽介さんに、敬意を表したい。これは偉大な功績である。なぜならこの本が解き明かすものはデザインそのもので、混迷するデザインの定義に光明を与えるものであるから。
この本を前に考え込む自分がいる。その姿は、過去の日本にも実在した完結した用の美の思想とセオリーを、それが崩れてしまった今どのように取り戻せばいいのかと考え込んでしまう自分と重なってくる。
すべてが濃くていちいち解説できない。とにかく読んでほしいのだ。まずは神の声のような一節を文中より紹介する。
ごく些細な事物に対しても子供のように「驚き」、「感動」することができ、それに対して「好奇心」を抱き、徹底して「探求」したくなる彼の天性の素質であった。(中略)まるで現在の人類学者の言葉のような1995年の「学生たちへの助言」にも「人のごく当たり前な身振りや慣習順応的態度、人が気にも止めないようなフォルムを批判的な目を持って観察することを」学びなさい、とあるように、世界を前に、分析し、いつでも批判的精神で物を見よ、目の前に提示された現実を鵜呑みにせず、ごくありきたりになってしまっている物のあり方ももう一度批判的に見直し、そうでない物事のあり方を探すための足がかりにしろということなのだ。その第一歩として好奇心を持つことこそが歴史の自明という表皮をうがってその下に潜り込み、現在を理解するために何としても必要な「道具」となるのだ。(AXIS 131号/2008年2月より)