1932年 フィンランドの名窯・アラビア製陶所内に設立
「美術部門(アート・デパートメント)」が産業史に残した功績

▲「フィンランド陶芸 芸術家たちのユートピア」展の展示風景

現在、目黒区美術館で開催されている「フィンランド陶芸 芸術家たちのユートピア」展では、フィンランドの名窯・アラビア製陶所内に1932年に設立された「美術部門(アート・デパートメント)」の歴史と、所属アーティストたちの作品を紹介する展覧会を開いている(2018年9月6日まで)。

アラビアの美術部門に雇われていたインハウスデザイナーならぬ“インハウスアーティスト”たちは、大量生産品の製造に関与することなく、完全に自由な作品制作を許されていた。基本給に加えて、作品が売れるごとに歩合給を受け取り、スタジオとアシスタントを与えられ、窯や材料も好きなだけ使うことができたという。

一方で戦時中には、こうした特権的な待遇に対する社会の批判が高まり、存続が危ぶまれた時期もある。2003年にアラビアから独立した協会組織となるまでの約70年にわたる、産業史的にもユニークな部署の功績と意味を振り返る。

▲1873年に設立されたアラビア製陶所

今までにない芸術性を生み出すために

アラビア製陶所は、スウェーデン・ロールストランド製陶所の子会社として、1873年にフィンランドのアラビア地区に設立されたのがはじまりだ。初期はロシアへの輸出向けに陶磁器や衛生陶器を製造し、1890年代からは英国アーツ・アンド・クラフツの芸術家を招いてオリジナルの食器をつくりはじめた。

1917年にフィンランドはロシアからの独立を果たす。当時世界中で流行していたアール・ヌーヴォーは、フィンランドにおいては「ナショナル・ロマンティシズム」として受容され、自国のアイデンティティに基づいたものづくりや芸術が席巻した。この流れに乗ってアラビアもまた、「海外の真似ではなく、フィンランド独自の芸術性を打ち出していかなければならない」と、1932年に美術部門を開設。

ディレクターに就任したクルト・エクホルム(1928‐1931)は、自らも作品をつくりながら、新たなアーティストを美術部門に招き、育成するキュレーションに力を注いだ。

▲クルト・エクホルム《蓋付ジャー》1932-35年 アラビア製陶所
Photo: Niclas Warius

例えば、ルート・ブリュック(1916-1999)は、エクホルムにスカウトされたアーティストのひとり。1940年はじめ、ブリュックはグラフィックデザイナーとして雑誌の表紙や版画などを制作していた。

陶芸の経験はなかったが、エクホルムはブリュックの視覚表現の才能を見抜き、その才能とセラミックを掛け合わせることで今までにない芸術を生み出そうと考えたのだ。

エクホルムの狙いは見事に的中した。ブリュックは潜在的な才能をみるみる開花させ、アラビアの職人とともに新しい表現技法を生み出し、1951年のミラノ・トリエンナーレの展示ではグランプリを受賞する。

そこから、もうひとりの同世代のスター、ビルゲル・カイピアイネン(1915-1988)と共に、美術部門は1960年代にかけて黄金期を迎えることになる。

▲同展では、黄金期を築いたブリュック(左側)とカイピアイネン(右側)の作品が並列に並ぶ。手前はカイピアイネンによるビーズバードのシリーズ

▲ブリュックの作品

美術部門とデザイン部門の両輪で

しかし、その前の1940年代には、美術部門に対する厳しい批判があったという。「フィンランド陶芸 芸術家たちのユートピア」展の企画を担当した学芸員の山口敦子(岐阜県現代陶芸美術館)は次のように説明する。

「アラビアは日用品のメーカーでありながら、美術部門は一点ものの贅沢品ばかりつくって、民衆の生活に全く貢献していないではないか、というわけです。戦中戦後のモノがない時代に、特権的な待遇に対する批判は、アラビアに対してはもちろん、個々のアーティストにも向けられました」。

世間の批判の高まりを受けて、美術部門は存続の危機を迎える。それに対してアラビアが取った方策は、プロダクトデザイナーのカイ・フランク(1911-1989)を招いて「プロダクト・デザイン部門」を新たに開設することだった。

1945年、デザイン部門長に就任したフランクは日用食器のデザインや製造をリニューアルし、アラビアの売上げを大きく伸ばす。1953年に生まれた“キルタ”は、新しい時代のライフスタイルに合わせた柔軟性の高い食器シリーズとして大ヒットし、現在も世界中の人びとに愛されている製品だ。

▲最後の展示室は、カイ・フランクをはじめとするプロダクトの名品を紹介

「デザイン部門が日用品の製造に大きく貢献したことにより、美術部門に対する批判は自然に和らいでいきました。両部門のスタジオは隣接し、お互いにリスペクトしあっていたようです。例えば、カイピアイネンによるロングセラー“パラティッシ”のように、美術部門のアーティストが大量生産品のデザインを手がけることもありました。美術部門とデザイン部門が両輪となることで、アラビアのブランド力は強化されていったのです」。

自由だからこそできること

ブリュックは、アラビアのアーティストでありながら、ドイツ・ローゼンタールのために大型作品を制作したり、フィンレイソンのテキスタイルデザインも手がけている(ブリュックはアラビアから給料の受け取りを放棄したが、工房と助手を持つなどアーティストとしての特権は保持した)。

山口は、「美術部門をもつ製陶所はロールストランドやグスタフスベリなどそれなりにありますが、ここまで自由度の高いところはほかにありません」と言う。

「歴史が浅いからこそ、また自由であるからこそ、アーティストたちは伝統や常識にとらわれることなく、まったく新しいセラミックの表現を次々と生み出すことができました。彼らのオリジナリティの高い作品はファイン・アートとして評価され、公共空間や街のなかにも設置されていきます」。

ヘルシンキ市内を見わたすと、市庁舎や百貨店など公共・商業建築の壁には、ブリュックやカイピアイネンによる大型作品が設置され、現在も行き交う人びとの目を楽しませている。これらのパブリックアートは、アラビアにとって一種の社会貢献であると同時に、その技術力と芸術性をより広く伝えることにも貢献したと言えるだろう。

▲ヘルシンキ市内、老舗ストックマンデパートに常設されているカイピアイネンの作品

本当の創造の喜びとは

しかし2000年代に入ると、ものづくりにとって厳しい時代が押し寄せる。世界中が金融危機に陥ったまさに2007年、アラビア(イッタラグループ)はフィスカースの傘下に入る。そして2016年3月には工場が閉鎖され、すべての製造が海外へ移された。トレードマークの煙突からもはや煙が立つことはなく、旧アラビア製陶所には、現在、大学や店舗、ミュージアムなどが入っている。

一方、美術部門は2003年にアラビアから独立し、「アラビア・アートデパートメント協会」という組織として新たな一歩を踏み出した。現在は8人のアーティストが在籍し、昔と変わらず、旧アラビア製陶所の9階にあるスタジオで自由な制作が続けられている。彼らの作品は、パブリックアートや美術館の展示として見ることができる。

▲現在のアラビア・アートデパートメント協会の工房

▲工房と同じフロアにあるデザインミュージアムアラビアでは、プロダクト、アート、タイムラインという分類でアラビアの歴史を紹介

熾烈な価格競争とエスカレートする効率化。この10数年のなかでアラビアが経験した苦難は、フィンランドも日本も含めてあらゆるものづくりが直面してきた、そして現在も厳しい戦いを強いられている問題だ。

山口は言う。「アラビアの美術部門が可能だったのはあの時代だったから、なのかもしれません。もう二度と現れることはない、という悲観的な見方もあります。でも、彼らの作品が教えてくれる、メーカーだからこその“創造の喜び”というものを、もう一度見直してみることも大切なのではないでしょうか」。

ものづくりの価値とはなにか、組織のなかで働くとはどういうことか。美術部門のアーティストたちによる、自由で、揺るぎのない、イノベーティブな作品からまっすぐに投げかけられる問い。大量のモノにあふれ、感性や体験価値が重要視される今の時代こそ、私たちはその問いに対する答えを探していかなければならない。End

▲アラビア製陶所の建物に常設されているミハエル・シルキン(1900-1962)のレリーフ。本展にもシルキンの陶彫作品が展示されている。