単なるファッションアイテムとしてだけではなく、個人の思い出や哲学を映し出した、象徴としての価値が腕時計にはあるはずです。腕時計をめぐる物語を大事にする、デザインにまつわるプロフェッショナルたちに、腕時計を持つ理由や出会いをうかがいました。
川崎力宏(ギャラリスト)
この時計、「ロレックス デイトジャスト」はもともと祖父のものでした。祖父が亡くなったときに父が受け継ぎ、以来30年くらい引き出しの中で錆びて眠ったままでしたが、その父も亡くなったことで私が受け継ぐことになりました。家業の建設会社から独立し実家も売却したため、父の遺品はこれだけなんです。オーバーホールを経て美しく蘇ったときには、祖父や父の歩んだ時間が動き出した感覚を覚えました。小ぶりでスタンダードなデザインではありますが、いちばん大切な時計です。
機械式時計の不思議なところは、廃盤になったモデルの価値が落ちないところです。むしろ時を経るごとに価値がどんどん上がるものもある。不動産や建築物も同じです。⼈々の記憶を紡ぐことができる稀有な存在ですので、永く残す使命があるように思います。
祖父や父からこの時計を受け継いだように、私が扱う建築や不動産も、先人の記憶とともに次の世代に受け継いでいけるか、愛してもらえるかを考えています。この時計は、私が取り組んでいる建築保存や開発事業への想いの象徴でもあるんです。
だからこそ、ここぞというときにこの時計を身に着けています。大きな契約だったり、冠婚葬祭だったり。お墓参りのときも必ず。このロレックスは、私にとっては父と会話するための通信機のような役割を持っています。人に見せたり華やかさを演出するためのものではない。できることなら体内に取り込んで、人様に見せないようにしたいくらいです(笑)。(文/喜多見仁子、写真/田口純也)
本記事はデザイン誌「AXIS」208号「腕にまく未来。」(2020年12月号)からの転載です。