『インターネットについて 哲学的考察』
ヒューバート・L・ドレイファス 著、 石原孝二 訳 (産業図書・2,100円)
評者 須永剛司(多摩美術大学情報デザイン学科教授)
「身体を持つ人間という観点からのネットへの警鐘」
僕がドレイファスの著書に出会ったのは1995年の秋、スタンフォード大学のテリー・ウィノグラード教授のもとでヒューマン・コンピュータ・インタラクション(HCI)の修行を始めたころだ。「人間とコンピュータの関わり合い」をテーマとする学問が芽を吹きはじめていたそのキャンパスでは、いくつかのHCIのクラスが全学を対象に開講されていた。コンピュータ科学のみならず、機械工学、心理学、英語、ジャーナリズムなどの多彩な学部から学生たちが参加するゼミで、僕はドレイファスの名前を何度も耳にした。
そのドレイファスがインターネットについての考察を著したのが本書である。この本を読むことは僕にとって心地良いものだった。「そのとおりだ」と同意することが多くあり、また、「なるほどデザイナーが考えてきたことが、そんな言葉になるのか」とわくわくしながら読み進めることができた。
本書でドレイファスは「身体を持つ人間」という観点からネットの限界について論じている。いや、むしろネットの中にもう1つのすばらしい世界、身体の制約を受けることのない世界があるという「宣伝」に対し警鐘を鳴らしているのだ。彼は、ネットを本物の道具とするために、私たちがこの身体とその能力を利用しながら生活していることの理解が重要であると力説している。
デザインの領域にいる僕は、この「身体」という概念こそデザインにおける「形」の論拠だと考えるので、この本に大きな関心を持っている。
本書は、ネットが奪い去るものとネットが与えてくれるものの対称関係という観点から次の4つの議論で構成される。
(1)ネットが奪い去る情報の質と与えてくれる情報の量。ネット利用において情報の「関連性(relevance)」と「広がり」はトレードオフの関係にある。ネットは広がりの量を与えてくれるが、情報の関連という質を奪い去る。その「質」を見つけるための信頼できる方法とは、その世界に身体を持って生活する人間が行うことの中にあり、システムに組み込むことではない。そのことは人工知能研究がぶつかった「フレーム問題」にも明らかだ。
(2)遠隔学習が奪い去る、教育における関与とリスクあるいは技能を習得するための能力。「関与(involvement)」すること、そこに生まれるコミットメントにおいて「リスク」を受け入れること、それらはネットの上にない。それは、学習者が傍観者としてでなく、関与し自らの選択に責任を感じるからこそ受け入れられるリスクだ。指導者と学生が信頼しあい、状況を共有し、お互いの身体が共に居合わせる場でのみ、両者は初めて関与とリスクを負うことができる。
(3)テレプレゼンスが奪い去るプレゼンス(現前)とリアリティの感覚。プレゼンスとは、現前、目前に触れるものとして在ることであり、テレ・プレゼンスとは文字通り遠隔的で触れることのできない存在を指す。ネットが可能にする世界、つまりすべての者が他のすべての者とあらゆる物に対してテレ・プレゼンスしているような世界に、われわれが住むという考えは意味をなさない。それはそこにリアリティの感覚が欠如しているからだ。
(4)ウェブが奪い去る意味と意味のある生活を送る可能性。ネットが可能にした、リスクなしに他の世界や他の「自己たち(selves)」で実験することができる場所で、私たちが意味のある生活を送れる可能性はない。ネット利用はそこに身体を欠如させているがゆえに、活動に結びついた本当の意味を伴わないからだ。関連性、関与とリスク、リアリティの基盤となる身体のみが、世界の諸々の事柄を区別する論拠となる。そしてその区別こそ、コミットメントと傷つきやすさを必要とし、さらに身体的な有限性の上に成立している「意味」だからだ。
ここまで来るとドレイファスの議論は、まさしくデザインの問題に近接してくる。ここで言われている「意味」の区別こそ、今日のデザイナーたちが格闘している課題にほかならない。身体と同様に、ダイナミックに変化する情報世界に「意味」を表象する「形」を彼らは懸命に与えようとしている。
「身体」を「形」として表象してきた20世紀デザインは、静止した人体をデッサンし、人体の姿勢と振る舞いを映像化してきた。しかし、コンピュータとネットワークの世界を人間の道具にするために、今「身体を持つ思考」を表象する「形」について議論を始めることが必要だ。動き変化している私たちの情報活動のプロセスとそのプロセスの「形」を明らかにすることが、ドレイファスから私たちに出された宿題なのではないだろうか。(AXIS101号/2003年1・2月より)
「書評・創造への繋がり」の今までの掲載分はこちら。