ドイツ・ハノーファー市の交通会社ユストラが
都市空間を一夜限りの移動劇場に

ハノーファー市の交通会社ユストラの主催で市電の車庫や旧車両、停留所、地下鉄線路といった、普段は演劇とは無縁の都市空間を一夜だけの移動シアターにするプロジェクトが実現しました。

上演されたのはイーゴリ・ストラヴィンスキーの作曲、シャルル・フェルディナン・ラミュの脚本で1918年にローザンヌで初演された『兵士の物語』(Historie de soldat)。この作品がつくられた当時は、第一次世界大戦末期の混迷の時代。劇場は閉鎖され、音楽家やダンサー、俳優も戦場から帰らぬ人となり、大きなアンサンブルを編成することも大掛かりな装置も夢のまた夢で、最小限のマテリアルと手段で最大限の表現効果を発揮せねばなりませんでした。1917年のロシア革命で私財を没収され、亡命者として経済的にもどん底にあった作曲家が、限りなくシンプルな舞台美術で、旅回りの小さな一座でも可能な新しいスタイルの音楽シアターをクリエイトしようとしたのです。

まず観客はハノーファー市街の南、デーレン地区にあるユストラ車庫に集まります。ユストラのブランドカラーである緑色の扉の奥にかつての貴重なトラムの数々が眠っています。

屋外の車庫にはジャスパー・モリソン設計のシルバーアローがズラリと並び壮観です。

ストーリーはアファナーシエフ編纂『ロシアの民話集』にある「脱走兵と悪魔」の話がベースになっています。休暇をもらった若い兵士が故郷の母の元へ向かう途中で一休みし、ヴァイオリンを弾いていて悪魔に出会い、未来を先読みし富を約束するという本と自分の魂でもあるヴァイオリンを交換するところから始まります。演ずるのはハノーファーの音楽・演劇系大学の学生たちで構成されたシアターアンサンブル「ロトルクス2(ROTOLUX 2)」。兵士役はダーヴィット・ミュラー、語り手と王女役がノーラ・デッカー、魅力的な悪魔をヤン・ヤロシェクが熱演。

『兵士の物語』はクラリネットとファゴット、トランペット、トロンボーン、パーカッション、ヴァイオリン、コントラバスの7人で構成される小さなオーケストラのために作曲されています。ここではハノーファー在住の若手音楽家からなる「階段室のオーケストラ(Orchestra im Treppenhaus)」のメンバーがタキシードではなくロシア移民風の衣装でパフォーマンス。指揮者はサングラスに金のネックレスをして70年代のキザ野郎という格好で出番の合間に靴を磨いていたり。この指揮者のトーマス・ポーストが今回のプロジェクトの発案者です。

一幕が終了後、次なる会場へは、「ミュージアムワゴン」とも呼ばれる、1929年と1950年製の2台のオールドタイマー(旧車両)で向かいます。

これは1929年製でインテリアも実にノスタルジック。通路を舞台に悪魔が観客を巻き込んでの爆笑即興ワンマンショーを開きました。

オールドタイマーでは運転手と同じ視界が開けていつもとは違う新しい街の風景を発見。ひょっとしてこれがタイムトンネルの中に吸い込まれて行く感覚なのではないかと想像したりもしました。

ユストラの車庫から旧車両に乗って移動後、次はシュタットハレ(市立文化ホール)前でオープンエアのシアターです。オーケストラは遊牧民のようにテントで演奏。オスカー・トゥスケッツがデザインしたトラム停留所が背景になっています。

オーケストラのテントと向かいあって、1950年製のトラム車両の屋根からクルクルと半透明のスクリーンが巻き落ち、街角にステージが登場。悪魔はヴァイオリンを弾けないので兵士を家に招待して3日間の約束で演奏法を教授してもらいます。しかし現実には3年が経過しており、故郷に帰ると兵士は誰にも歓迎されず婚約者は既に別の家庭を持ち、さらには脱走兵の汚名が着せられていました。悪魔からの本を活用し大金持ちになったものの心は満たされないままでした。

スクリーンの後ろを楽屋代わりに悪魔は老女へと変装しなければなりませんが、この変装プロセスが美しい影絵になっていました。

クライマックスとなる3つ目の会場はハノーファーの中心街にあるシュタイントア地下鉄駅の秘密の線路。シュタイントアの地上にはアレッサンドロ・メンディーニのトラム停留所があります。いつも利用する地下鉄ホームの足下深くに整備用に使ったりする行き止まりの隠れホームが存在するとは知りませんでした。交通局の職員が懐中電灯で観客の足元を照らしてくれます。

ある国の王女が誰も治せない病気にかかっていましたが、兵士は悪魔から取り返したヴァイオリンの音で病を退治しふたりは恋に落ちます。恨みを持つ悪魔は、その国を出れば兵士には災いが降り掛かるという呪いをかけます。王女の望みで兵士の故郷の村へ行こうと国境を越えた瞬間、兵士は悪魔の手に落ち、王女だけが国境に残されてしまいます。

私たちが2時間半かかって観劇している間に、車庫はちょっとしたアフターシアターパーティー会場にアレンジされていました。プロジェクトは半年前にスタートしましたが、ユストラ社としても音楽シアターをプロデュースするのは初の試み。構想から実施に移すまで本当に冒険だったそうです。市電とストラヴィンスキー? そんなのカラーが合わない、マーケティングにもならないと社内でも批判の声が上がり、皆が企画に賛同したわけではありませんでした。でもそんな懸念は全くの無用。9月に行われた4回の公演はすべてソールドアウト。その後の問い合わせも多く、再演の可能性を探っているそうです。電車やバス、停留所や車庫が街の中のユニークな劇場空間としてもっと再発見されてもよさそうです。(文・写真/小町英恵)

この連載コラム「クリエイティブ・ドイチュラント」では、ハノーファー在住の文化ジャーナリスト&フォトグラファー、小町英恵さんに分野を限らずデザイン、建築、工芸、アートなど、さまざまな話題を提供いただきます。