5月になると「今年、“まつもと”に行く?」と、決まり文句のように知人から話しかけられる。 “まつもと”といえば“クラフトフェアまつもと”を思い浮かべるように、代名詞と言えるイベントだ。開催は5月の最終土日、と決まっているので、多くの人が泊りがけで長野県松本に集まる。そのため随分前から宿は満室、かつ高値がつくほどの人気だ。
また昔の自慢話になるが、1985年に始まったクラフトフェアまつもと(以下、“まつもと”)に90年から通っている。その年の春、青春18切符で初めて松本に向かった。特に下調べはせずに向かったのだが、中町通りという誰もが通る、工芸のお店が集まる通りで、「GRAIN NOTE」という雰囲気のいいクラフトショップに入った。そこにあった1枚のDM。そのDMには簡単な説明と日付と場所しか書かれていない。今と違ってネットの情報がない時代だ。この“まつもと”が何たるものなのかわからないまま、ただ、美しいDMの写真が気に入り、なんとなく机の上に置いていた。このDMが木工家の三谷龍二さんの手によるものである、と認識したのは、数年後のことだ。
その年の、5月末のある日、ふとDMを見直すと、明日がその日だった。そうか、行ってみよう、と早起きして、鈍行列車で向かった。(八王子から鈍行で3時間40分。別に行けない距離ではない)。その当時の“まつもと”は牧歌的だった。今は250人前後の出展者が、広いあがたの森公園にぎっしり、テントを並べているが、当時は、ポツンポツンという感じ。
「猫、いりませんか?」と子どもが里親を探していたり、出展者は皆ビールを飲みながら、芝生に品物を並べていた。つくり手が集まる場は百貨店にもあったが、野原ののびのびとした雰囲気はまるっきり別物で、翌年からは、0時1分新宿発、上諏訪行きの夜行列車(寝台ではなく普通座席。乗客の半分ぐらいは、山登りのため、山梨県で降りていった)に乗り、上諏訪で顔を洗い、鈍行を乗り継いで、松本に行くようになった。
以下は、あくまで筆者の私見であることを先に述べていくが、“まつもと”に関しては、今までにいくつかの転機があったと思う(しつこいが、6回目以降のことであり、かつ、ひとりの来場者としての私見である。年度も多少のズレがあると思う)。
まずは、90年代半ばにある人気の挿花家が雑誌に紹介したことで、多くの女性ファンが、“まつもと”の存在を知り、緑のなかのクラフトフェアを目指した。当時の手仕事に興味を持つ女性が好んだ、エスニックのゆったりしたファッションのグループが何組も見受けられるようになった。その後、スタイリストさんやモデルさんがクラフトフェアに来るようになり、雑誌社がそれに帯同して、取材も盛んに行われた。2000年に入り、出展もされていた三谷龍二さんのブースに並ぶ品物がどんどん減っていった。人気が出すぎて、並べるものがなくなったようだった。その後、11年に三谷さんは「10センチ」というお店を市内の六九通りに開き、“まつもと”の時期には、仲間と「六九ストリート」というイベントをするようになった。
ところで、“まつもと”の初期の話だが、三谷さんは一時、「BAR皐月亭」のマスターでもあった。土日開催のフェアだが、2日目は17時で閉場のため、開催中の夜は一晩だけ。その土曜日の晩に公園の中央に突然、「BAR皐月亭」が現れる。マスターは蝶ネクタイの三谷さんだ。雨天の場合は中止され、1年にひと晩限りのバーは来年までお預け、ということになる。そんな遊びを30年前からしていたのだ。
そして、私を最初に“まつもと”に向かわせたあのDMは三谷さんの手によるもの。1枚の写真から30年近い松本通いがはじまったのは私だけではないだろう。
今年はと言うと、「行かなくても良い気がするけど、後で後悔しそう……」と、泊まらずに駆け足で回ってきた。かつては街なかを歩いていても、“まつもと”の存在を知らない住民も多かったが、最近は、海外からも “まつもと”を目指してくるという。行政のサポートもしっかりしており、松本駅を降りた途端、連絡バスやレンタサイクルの案内をするスタッフが待ち構えている。今や、メイン会場の“あがたの森公園”だけでなく、市内のそこかしこでものづくりのイベントが開催され、配布物もしっかりしている。市を挙げての一大イベントだ。
毎年、毎年、このフェアに通っていたのは、楽しかったからということもあるが、99年に独立し、自分で企画展を開くようになってからは、そこに“仕事”という目的が加わった。“作家探し”という仕事だ。自分のなかでは“自分だけの見本市”という気分だった。「どこでこんな素敵な作家を見つけたのか」と、自分の企画展で人に聞かれると、鼻高々だった。なにせ1年に2日しかやっていない場所で見つけたのだから。
だが、10年前ぐらいからだろうか。様子が変わってきた。私だけの見本市(と、自分だけが思っていたのだ)が、気づいたら、多くのギャラリー店主の見本市になっていた。そして、つくり手の見せ方も、古道具の棚を用意して、屋外にも関わらず、雰囲気のある展示を作る人が増えた。なんだか変わってしまったな、と思いながらも、どうしても気になるので、毎年、会場には向かうことになる。見本市と化したフェアでは、もう、ビールを飲む出展者はいない(ゼロではないが、皆、酔っ払うことより、商売に一生懸命だ)。
そのことが無性に悔しくなり、近くの酒屋で缶ビールをまとめて買い、知り合いがいれば配り、自分ももちろん、飲みながら廻るようになった。今だから正直に言うが、寂しかったのだ。自分だけの見本市が消滅してしまったことが……。だが、これが時代の変化なのだ。益子のGWや秋の連休の陶器市に開かれる陶器市。昔は問屋に買ってもらえなかった商品を捌く場だったと聞くが、やはり10年以上前から、人気作家のものは会期半ばにはなくなる。陶器市も今は、人気作家のものを買う展示会場であり、ギャラリー店主の買い付けの場なのだから、出展者リストも完備のクラフトフェアはさもありなん、だ。
自分もかつては“まつもと”出展作家のみで展示会をしたこともあるが、今は「まつもと」の作家、というカテゴリーができてしまった気がする。日本一のクラフトフェアに出展するには競争率も高く、それだけにいい作家とたくさん出会える。だが、その作家たちだけで満足することは、なんとなく「人の選んだもの」をそのまま横流しするようで、釈然としない。ほどほどにこの仕事をしているのだから、クラフトフェアや見本市など、人のふるいにかけられた人だけではなく、自分自身の尺度を持って、つくり手は探していきたい、と、“まつもと”に行くたびに、気を引き締めるのだ。
「私だけの見本市」は情報が乏しかった頃のおとぎ話。いろいろ、昔を思い出し、幸せだったと思うのだった。
《前回のおまけ》