仕事柄、モノづくりの現場を見にいく機会が多いのだが、日本のなかで、手仕事を残す難しさを痛感している。ここ数年、今まで以上に、伝統工芸だ、地場産業だ、とモノづくりは脚光を浴びているが、それはあくまでも“仕上がったモノ”。ひとつのモノをつくり上げるには、これがないと仕上げられない、という材料や道具は、忘れられがちだ。
これらは一般人は使わないから、需要は少ない。しかし、プロが使うものだから、一筋縄ではいかない。あれば良いのではなく、「誰々のつくったあれ」「あそこの産地のこれ」と、代替えが効かないことも多い。「もうすぐなくなりそうだから、手に入れられるだけ、買い占めた」とか「なくなってしまったから、仕方なく代替えを探して作業しているけど、やっぱり具合はイマイチ」などという話もよく聞く。
工芸関係の補助金を後継者育成のために出しても、教える側が悪いのか、教わる側が悪いのか、長続きしない話はよく聞く。教わる側が悪いパターンは、堪え性がなくて、習得するまで耐えきれずに辞めてしまうことが多いらしい。教える側が悪いパターンは、唯一の技術を、見ず知らずの人間に教えたくない、といういかにも人間くさい、ちょっとケチな感情が邪魔をするパターン。後継者として入ったものは、教えてもらいたくても、肝心なところを教えてもらえず、習得できずに任期が終わる、ということがあるらしい。そんな意地悪でなくても、教え方が下手な人と、教わり方が下手な人の組み合わせでは、技の伝授は難しい。
漆は漆の木から出る樹液を、人間が塗料として使っているものだ。漆掻きと呼ばれる職人は、日本一の漆の樹液の供給量を誇る岩手県二戸市と日本漆掻き保存会が漆掻き伝承者養成の研修生を募り、どうにかその技を後につないでいる。
だが、漆を採るには専門の道具が必要だ。6本が1セットと種類も多く、形も一筋縄ではいかない漆掻きの刃物をつくる職人が、日本にひとりしかいないという話は聞いていた。その唯一の職人、青森県の中畑文利さんが深刻な病気を患い、「余命いくばくもない。自分としてはぜひこの技術を残したい、誰か修行に来てほしい」と書かれた新聞記事を人から見せられたことがあった。ずっと気になって、漆の関係の人に折りを見て訊ねると、すでに何人も修行に来たが、なかなか続かず……と聞き、技術の伝承の難しさを知ったのだった。
あるとき、omotoの屋号で包丁鍛治をしている鈴木康人さんに、二戸市から「漆掻きの刃物の技術を習得しないか」と、白羽の矢が立った。鈴木さんの包丁は人気のため全国に待っている人も多いのに、そんな余裕はあるのだろうか、と野暮なことを考えていたが、鈴木さんとしては「願ってもないチャンス」とこの話に乗ったそうだ。
往々にして、職人は人に技を教えたがらない。工房に入れたとしても、 “背中を見て覚えろ”といった類いだ。それが、自ら「技を伝授する」なんて、なかなかない話。そんなことをいう職人にも興味があったので、今年の初めに、岩手県工業技術センターの方にお願いして、中畑さんの仕事場にお邪魔した。
ご病気と聞いていた中畑さんは “どうにか病気は治まった状態”のようで、訪ねた日も奥様と一緒に、力強くお仕事をされていた。こちらの質問に丁寧にひとつひとつお答えくださったが、注文をくれる漆掻き職人、ひとりひとりの要望に合わせて微妙に角度や重さなどを変えている、と聞き、技の伝承はマニュアル本をつくれても、それだけでは済まされない、と痛感した。別の機会に鈴木さんにもお話を伺った。ほかの刃物とは全く勝手が違う漆カンナ。習得するのはまだまだ、と苦笑いしながらも、この新しい仕事に手応えを感じているようだった。
ここで考えたいのは、何人もが習得の途中で挫折したのに、なぜ、鈴木さんが続いているか、ということだ。まずは鈴木さんの人柄がある。憎めない笑顔は、人の懐にふっと入っていける鈴木さんの持って生まれたものだ。年齢もある。鈴木さんが中畑さんの門を叩いたのは50半ばを過ぎていた。だから人生経験も豊かで師匠の雑談にもついていけた。すでに鍛治の仕事を習得していたから基礎があり、余計なことを説明しなくても作業が進められた。教わるほうが疑問点を自分で見つけられたことも大きい。修行はこのくらいの努力はすべきだ、という常識もあった。福島の自分の工房での、もともとの包丁の仕事と青森での修行、それぞれを両立させたため、“何かを諦めたわけではない”ことも良かったのだろう。
そして、教えてもらえることを幸運と思っていること。この気持ちが伝わり、中畑さんもすっかり鈴木さんを気に入り、鈴木さんと出会ってから人生に張り合いが出て、病気の影が見えないほど元気になったという。伝えたことがちゃんと伝わる、師匠がちゃんと教えてくれるから、さらに応える。お互いの手応えがいい結果をもたらしている。
とはいえ、こんな良い出会いは滅多に聞かない。だが、先に挙げ連ねたポイントは、何かのヒントにはなるのではないだろうか。
なくなるものが多いなか、ひとつでも歯止めがかかることを祈るばかりだ。
《前回のおまけ》